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容貌や立ち居振る舞いが美しく眉目も秀麗で、幼い頃から祖父の[[楊堅|文帝]]に可愛がられた。[[開皇]]年間に豫章王に立てられ、食邑1000戸を与えられた。成長すると経書や史書をよく学び、特に騎射に巧みであったという。初め内史令となり、[[仁寿]]年間に揚州総管沿淮以南諸軍事を拝した。[[604年]]、父の煬帝が即位すると、斉王に封じられ食邑を4000戸に増やされた。[[606年]]([[大業]]2年)、東都[[洛陽]]が完成して煬帝が初めて入城した時、儀仗隊の軍導を取り仕切った。まもなく豫州牧となるが、にわかに兄の皇太子楊昭が病没したため、朝野はみな次の跡継ぎは楊暕がなると期待した。煬帝は吏部尚書の[[牛弘]]に命じて楊暕の配下を選ばせ、公卿の子弟の多くが任命された。翌[[607年]]、雍州牧に転じ、すぐに河南尹・開府儀同三司となった。楊暕は兄楊昭の配下だった2万人すべてを与えられるなど、父の寵愛もますます大きくなった。おばの[[楊麗華|楽平公主]]以下、親戚たちも争って彼に礼を尽くし、百官も拝謁を求めて道路が混み合うほどであったという。
このような厚遇から、楊暕は新たな皇太子は自分
楊暕の周りで不法な行為が生じ、御史の
[[618年]]、江都宮で[[宇文化及]]が反乱を起こした時、反乱の知らせをはじめ聞いた煬帝は楊暕が反乱したに違いないと蕭皇后に語った。宇文化及はまた楊暕も捕らえて殺すよう命じていたが、楊暕は反乱兵を見て煬帝が自分を捕らえるよう命じたのだと思った。処刑される時になっても宇文化及の命令によるものだと
== 伝記資料 ==
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