「市川團十郎 (初代)」の版間の差分

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'''初代 市川團十郎'''(しょだい いちかわ だんじゅうろう、[[万治]]3年([[1660年]]) - [[元禄]]17年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]([[1704年]][[3月24日]]))は[[元禄]][[歌舞伎]]を代表する[[江戸]]の役者。[[立役]]を得意とし、[[荒事]]芸を歌舞伎に導入した。
 
初代市川団十郎の父は[[甲州]]出身で、異名を「菰(こも)の十蔵」と呼ばれた[[侠客]]だったという。さらにさかのぼると[[武士]]で後北条家の家来であったという説もあるが、これは甲州の出ということ以外は疑わしいとされる。「菰の十蔵」というのは十蔵が[[非人]]出身なのでお菰(コジキ)の意味でそう呼ばれたものと思われる。十蔵は甲州から出てしばらく下総に住んだのち、江戸和泉町に住み着いたといわれている。<ref>[http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/geinohsi1.htm 身分問題から見た「歌舞伎十八番」その1:「暫」と「不動」]</ref>
父親は「面疵<small>(つらきず)</small>」と呼ばれた顔役・堀越重蔵。昭和初期に[[山梨県]][[笛吹市]][[一宮町 (山梨県)|一宮町]]の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が[[市川三郷町]](旧[[三珠町]]上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし[[市川宗家]]は、初代團十郎は[[成田山新勝寺]]にほど近い[[幡谷]]の出身で、新勝寺とは少なから縁があったと公式に表している。これが「[[成田屋]]」という市川宗家の[[屋号]]の由来である。
 
父親は「面疵<small>(つらきず)</small>」と呼ばれた顔役・堀越重蔵。昭和初期に[[山梨県]][[笛吹市]][[一宮町 (山梨県)|一宮町]]の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が[[市川三郷町]](旧[[三珠町]]上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし[[市川宗家]]は、初代團十郎は[[成田山新勝寺]]にほど近い[[幡谷]]の出身で、新勝寺とは少なから縁があったと公式に表している。これが「[[成田屋]]」という市川宗家の[[屋号]]の由来である。
 
[[近世]]初期には[[長吏]]頭・[[弾左衛門]]の支配下にあった。しかし歌舞伎関係者は自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざした。宝永5年(1708年)に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、ついに「独立」をはたす。江戸歌舞伎を代表する市川團十郎家は、このことを記念する『勝扇子(かちおうぎ)』という書物を家宝として伝承していた。またこの訴訟は、歌舞伎十八番の一つ『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』成立の契機となったという有力な説もある。しかし、歌舞伎役者は行政的には依然差別的に扱われた。彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けた。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局[[明治維新]]後のことだった<ref>
[http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/history/danzaemon03.html 弾左衛門は歌舞伎を江戸中期まで支配した]</ref>
 
== 来歴 ==
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*[[元禄文化]]<!--
*[[坂田藤十郎]]-->
 
== 脚注 ==
<references />
 
{{先代次代2