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[[ファイル:Věnceslav Černý - Odchod Kateřiny, dcery Jiříkovy, z domova do Uher.jpg|230px|thumb|right|ハンガリーへと発つ直前、父イジーと継母ヨハナに別れを告げるカテジナ]]
'''カテジナ・ス・ポジェブラト'''([[チェコ語]]:Kateřina z Poděbrad;[[ハンガリー語]]:Podjebrád Katalin、[[1449年]][[11月11日]] - [[1464年]][[3月8日]])は、ハンガリー王[[マーチャーシュ1世]]の最初の妃。ボヘミア王[[イジー・ス・ポジェブラト]]の娘、母はその最初の妻[[クンフタ・ゼ・シュテルンベルカ]]。
 
[[フス派]]貴族の頭目であったイジー・ス・ポジェブラトの次女として、一族の本拠[[ポジェブラディ]]で生れた。カテジナには双子の妹[[ズデンカ・ス・ポジェブラト|ズデンカ]]がおり、この妹は後にザクセン公[[アルブレヒト3世 (ザクセン公)|アルブレヒト3世]]に嫁いでいる。父イジーは1458年に国王に選出された。
 
一方、イジーと同じ年にハンガリー国王に選ばれたマーチャーシュ1世は、婚約者であった[[スロヴェニア]]の公女[[アルジュベータ・ツェリスカ]]を亡くしていた。若いハンガリー王とボヘミア王女との縁談はカテジナが9歳の時すでに持ち上がっており、イジーはカテジナと結婚した場合はマーチャーシュ1世にボヘミア王位を相続させるという条件をつけた。1461年5月1日、11歳のカテジナは20歳のハンガリー王と[[ブダ]]の[[マーチャーシュ聖堂]]で結婚式を挙げた。カテジナは結婚と同時にハンガリーへ移り、人文主義者[[ヤヌス・パンノニウス]]から[[ラテン語]]教育を受けた。
 
幼い王妃は国政の面で夫に影響力をもつことはほぼ無かった。結婚して3年目、カテジナは14歳で最初の妊娠をした。しかし出産の数日後、生れた子供と一緒にカテジナは亡くなった。マーチャーシュはナポリ王[[フェルディナンド1世 (ナポリ王)|フェルディナンド1世]]の娘[[ベアトリーチェ・ダラゴーナ|ベアトリーチェ]]と再婚したが、彼女も子供を授からなかった。
 
 
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