「佐藤紅緑」の版間の差分

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[[1890年]](明治23年)[[東奥義塾]]を中退、青森県尋常中学校(現[[青森県立弘前高等学校|弘前高校]])に入学。[[1893年]](明治26年)、遠縁に当たる[[陸羯南]]を頼って上京、翌年[[日本新聞社]]に入る。[[正岡子規]]の勧めで俳句を始める。[[1895年]](明治28年)、病により帰郷、東奥日報社に入り、小説、俳句などで活躍。[[1896年]](明治29年)、東北日報社(翌年河北新報社)の主筆。[[1900年]](明治33年)、[[報知新聞社]]に入り[[大隈重信]]に重用される。記者活動の他、俳人として活躍。[[アレクサンドル・デュマ・ペール|大デュマ]]、[[ヴィクトル・ユーゴー]]などの翻訳もする。
 
[[1905年]](明治38年)、記者生活を止め、俳句研究会を起こす。小説「あん火」「鴨」など自然主義風の作品により注目を浴び、[[1908年]](明治41年)、創作集『榾(ほだ)』を刊行。

1906年(明治39年)から1914年(大正3年)まで、[[新派劇|新派]]の本郷座の座付作者を勤める。

1912年(大正元年、小説「霧」翌年「谷底」をはじめ新聞連載小説を発表。[[1915年]]([[大正]]4年)、劇団新日本劇の顧問。女優横田シナ(後、三笠万里子と改名)を見初める。[[1918年]](大正7年)、妻はるとの別居などを経て、[[1922年]](大正11年)、万里子と結婚。[[1923年]](大正12年)、映画研究のため渡欧,翌年東亜キネマの所長([[1925年]](大正14年)退任)。
 
妻・三笠万里子を女優として売り出そうと、劇団活動を行うが、「紅緑にとりいって主役の座を得た」との悪評により、成果はでなかった。万里子は、妊娠・出産により女優を断念する。