「アンリ・ペリシエ」の版間の差分

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体裁
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[[1921年]]頃、アンリとフランシスのペリシエ兄弟が向こう最低5年間はツールに最大限注力するが、その代わりに所属チーム(オートモト)に対し報酬のアップを要求したところ、その要求を拒まれたことから、チームには所属しないという手段に出た。この手段に対し、ツール・ド・フランス産みの親として知られる[[アンリ・デグランジュ]]が激怒。ペリシエの行動に対してロト紙上で痛烈な批判記事を展開。1923年のツール前には、「奴らは絶対にツールでは勝てない」とまで言い放った。
 
しかしながらアンリはその年のツールを制覇した。この際アンリは、「これまで俺たちをサーカスの猛獣のように扱いやがって!」と真っ向からデグランジュを非難。さらに翌[[1924年]]の[[ツール・ド・フランス1924|ツール]]では抗議の姿勢を示すため、[[マイヨ・ジョーヌ]]を身に着けず、別に持ってきたジャージを着用してレースに出た。結局この年、アンリは第3ステージにて棄権。翌[[1925年]]の[[ツール・ド・フランス1925|ツール]]にも出場したものの、第4ステージで棄権。また1925年はアンリが出場した最後のツールとなった。
 
===悲劇の最期===
1924年のツール・ド・フランスに出場したアンリ、フランシス、シャルルのペリシエ兄弟が揃って棄権。その後、以前より[[ストリキニーネ]]、[[コカイン]]、[[クロロフォルム]]、[[アスピリン]]などの薬物使用を行っていたことがあると、親しい新聞記者に打ち明けた。
 
 
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