「ケーストゥティス」の版間の差分
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'''ケーストゥティス'''({{lang-lt|Kęstutis}} {{IPA2|[kæsˈtuːtɪs
「ケーストゥティス」という名は、リトアニア人の名称としての''Kęstaras''や''Kęstautas'' (ここでは''kęs-ti'' は''ケープ''を意味する)を短縮化した''Kęstas''という名称の形態に由来する。歴史上の書かれた資料は異なるリトアニア語の発音の影響を受けている<ref>{{cite book | last = Zinkevičius | first = Zigmas | authorlink = | coauthors = | title = Senosios Lietuvos valstybės vardynas | publisher = [[Science and Encyclopaedia Publishing Institute]] | year = 2007 | location = | url = | doi = | id = | isbn = 5420016060| page = 51 }}</ref>。
== 生涯 ==
ケーストゥティスは大公[[ゲディミナス]]の息子の一人である。弟の[[ヤヴーヌティス]]は父からリトアニア大公を継承した。ケーストゥティスは兄の[[アルギルダス]]と共謀してヤヴーヌティスを追放した。兄弟は領土を東西に分割した。[[1337年]]頃に[[トラカイ]]公が設置された。アルギルダスの目が集中している間、ケーストゥティスの努力は西方に集中していた。ケーストゥティスは[[ドイツ騎士団]]や組織化された[[ドイツ]]の騎士の集団に対する[[リトアニア]]と[[サモギティア]]の防衛を組織した。何人かの歴史家は兄弟の分割統治は[[ヨーロッパ史|ヨーロッパの歴史]]では先例のないものだと主張している。ケーストゥティスは
ケーストゥティスは[[リトアニア大公国]]西部の国境線の争いでは外交と同様に異なる軍事を採用した。[[1349年]]にドイツ騎士団とのこれ以上の衝突を避けるために、[[ローマ教皇]][[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]]と[[リトアニアのキリスト教化]]の交渉を行い、自身と息子のための[[王冠]]の約束を取り付けた。アルギルダスは商業上や関心を持つ[[ルーシ]]諸侯を別にして進んで異教のままでいた。交渉の仲介者である[[ポーランド王国|ポーランド王]][[カジミェシュ3世 (ポーランド王)|カジミェシュ3世大王]]は[[1349年]][[10月]]に[[ヴォルィーニ]]と[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]]への想定外の攻撃を行い、ケースとゥティスの計画は潰れた。ヴォルィーニを巡る[[ポーランド・リトアニア戦争]]の間、[[1351年]][[8月15日]]に[[ハンガリー王国|ハンガリー王]][[ラヨシュ1世|ラヨシュ1世騎士王]]は、王冠に代わるキリスト教への改宗と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]への軍事的援助の義務を取り付けることでケーストゥティスと和平を画策した。和平は他の面でのケーストゥティスによる異教の儀式の証拠を確信させるものである。事実、ケーストゥティスは和平に応じることも、[[ブダ]]へ行く意思もなかった.<ref>{{lt icon}} [http://www.lrytas.lt/?data=&id=11832768841182643783&sk_id=&view=4&p=4 Kęstutis: krikšto priešininkas ar šalininkas? (Kęstutis: was he a proponent or opponent of the Christianization)], in Kultūros barai, 2006, 6. accessed on 01-07-2007</ref>
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