「徳恵翁主」の版間の差分

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[[画像:Princess_dukhye_and_takeyuki_so,_1931.JPG|thumb|夫・宗武志と(1931年、対馬厳原にて)]]
 
しかし、徳恵は精神と知能に深刻かつ先天的な疾患と障害を抱えており、その病状は少女期から新婚時代には小康状態にあったが、出産から数年後に再発した<ref>韓国側ならびに韓国寄りの立場を取る一部の日本の学者などは、徳恵の精神・知能疾患について「[[大日本帝国|日帝]]によって強制的に単身で日本に留学させられた上、醜い日本人の男と無理やり結婚させられ、子供まで妊娠・出産させられた挙句、夫を含む宗家一族はもとより、その女中たちにまで虐待され続けた」事が原因である[[後天性疾患]]であると強硬に主張し続けている(『朝鮮朝宮中風俗の研究』第十章六節 斜陽王室に生れたの徳恵翁主の悲劇 [[2008年]]、金用淑著/大谷森繁監修/李賢起訳 [[法政大学出版局]] ISBN 4588080296)が、この主張には事実と異なるものが多く、信憑性ははなはだ乏しい。</ref>。武志の献身的な介護の甲斐なく症状は悪化の一途を辿り、[[1955年]]に徳恵の実家・李家から宗家に対する離縁要求により、武志の反対も空しく徳恵は夫との離婚を余儀なくされ、母方の姓を名乗って梁恵となり<ref>ただし離婚後も日本国籍のままで韓国籍にはなれなかったという。本馬p.235を参照。</ref>、[[1962年]]に帰国した。帰国後は[[昌徳宮]]内楽善斎に住み、[[1989年]][[4月21日]]同所にて死亡。
 
のちに、詩人でもあった武志は、寵愛した徳恵との別離の深い痛みと悲しみを[[ホオリ|山幸彦]]と[[トヨタマヒメ|豊玉姫]]の離別譚に託した詩を綴っている。