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'''井伊 直澄'''(いい なおずみ、[[寛永]]2年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]([[1625年]][[8月17日]]) - [[延宝]]4年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]([[1676年]][[2月16日]]))は、[[江戸時代]]の[[大名]]で、第3代[[彦根藩]]主。幕府では[[1668年]]から[[1676年]]まで[[大老]]も務めた。[[井伊直孝]]の五男。官位は従四位下、左少将、掃部頭。
 
本来であれば長男の[[井伊直滋]]が世子となるはずであったが、父・直孝と折り合いが悪く[[万治]]元年([[1658年]])に廃嫡され遁世した。同年四男の[[井伊直縄]]が世子とされたが同年に逝去。そのため五男の直澄が彦根藩の世子と定められた。翌万治2年([[1659年]])、直孝が亡くなったためその跡を継いで彦根藩主となった。[[寛文]]8年([[1668年]])11月19日には大老に就任。延宝4年(1676年)1月3日、大老在職中に死去。享年52。「子供が生まれても後継ぎにしてはならない」との直孝の遺言を守り正室を娶らず、家督は直孝によって定められた通り、兄・直縄の子で直澄の甥に当たる[[井伊直興]]を養子として家督を継がせた。
 
穏やかながら機知に富んだ性格で、ある日[[徳川光圀]]の伴として[[徳川家綱]]の茶会に出席したことがあったが、家綱は茶を点てるのに不慣れで一人では飲みきれない量を光圀に出してしまった。光圀も将軍直々に出された茶を残すわけにもいかず、困り果てていた。
そこで直澄が進み出て光圀に「上様がお点てになったお茶など頂戴する機会はなかなかございません。もしお飲み残しでしたら是非拙者にも賜れないでしょうか」と取りなしたため、家綱も「余ればそのまま直澄へ」と言ったという。
 
江戸で浪人が[[大名屋敷]]の門前で「[[切腹]]するから介錯しろ」と脅して金をねだる事例が多発したことがあり、井伊家の門前にもやってきたが、直澄は平然と「したいと言うのなら切腹すれば良い」と答えて、奥に招きいれ食事をさせた後に切腹させた。これにより腹切り騒動は鎮静化したという。
また、直澄は父・直孝に恩義を感じ、供養塔を[[琵琶湖]]の[[多景島]]に建てている。延宝四年([[1676年]])正月に江戸にて没。
 
戦乱で灰燼に帰していた[[青岸寺]]([[滋賀県]][[米原市]])を慶安三年([[1650年]])再興している。また、直澄は父・直孝に恩義を感じ、供養のため高さ8mほどの石造七重層塔を[[琵琶湖]]の[[多景島]]に建てている。延宝四年([[1676年]])正月に江戸にて没。
なお大老在任中に、[[江戸]]の市中を騒がせた[[浄瑠璃坂の仇討]]が起きている。仇討を果たした一党は自害せずに、幕府に出頭して裁きを委ねて来た。これは徒党を組んでの仇討であり、厳罰必至の裁定が下るところでありながら、大老であった直澄の意見が大きく反映され、遠島流罪に軽減されている。直澄は、この仇討の志士たちを好意的に受け止めていたようで、流罪から数年後には恩赦を受けた仇討の面々を彦根藩士として召し抱えたりしている。
 
なお大老在任中に、[[江戸]]の市中を騒がせた[[浄瑠璃坂の仇討]]が起きている。仇討を果たした一党は自害せずに、幕府に出頭して裁きを委ねて来た。これは徒党を組んでの仇討であり、厳罰必至の裁定が下るところでありながら、大老であった直澄の意見大きく反映され、死一等を免じて遠島流罪に軽減とした。れている。直澄は、この仇討の志士たちを好意的受け止めていたようで、流罪から数年後には恩赦を受けた与えて、仇討の面々を彦根藩士として家中に召し抱えたりしている。
 
俳人の[[森川許六]]は直澄の家臣であった。