「ナバス・デ・トロサの戦い」の版間の差分
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|caption=『ナバス・デ・トロサの戦い』(マドリードにあるスペイン上院議事堂にて掲示)
|conflict=[[レコンキスタ]]
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== ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響 ==
ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝の受けた打撃は壊滅的ともいえるもので、以後イベリア半島のイスラム勢力は衰退と後退の一途をたどることになった。そしてムワッヒド朝の本国である[[マグリブ]]においても、やや時期が遅れたものの、衰退に拍車をかけることになった。一方でカトリック諸国のレコンキスタの進展にははずみをつけることになった。
カトリック諸国間の内紛や[[1225年]]の大飢饉がなければ、もっとレコンキスタが加速したであろうと言われている。ナバス・デ・トロサの戦いの後、カスティーリャ王国は[[バエサ]]と[[ウベダ]]を獲得した。これはナバス・デ・トロサ近郊の主要な砦であり、アンダルシアへ侵入する玄関口ともいえる拠点であった。カスティーリャ王国のレコンキスタは [[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|
一方、アラゴン王国は[[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]の時代、[[1228年]]から4年をかけて[[バレアレス諸島]]を征服し、[[1238年]]9月に[[バレンシア王国|バレンシア]]を占領した。バレンシアは13世紀の地中海において[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]や[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]に次ぐ商業都市となった。アラゴン王国は、バレアレス諸島から[[サルデーニャ]]や[[シチリア]]までの西地中海域を支配する「帝国」へと成長した。
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([[:en:Battle of Las Navas de Tolosa 英語版からの引用]])
* 鈴木康久『西ゴート王国の遺産―近代スペイン成立への歴史』[[中公新書]]1283、1996年 ISBN
== 外部リンク ==
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[[ru:Битва при Лас-Навас-де-Толоса]]
[[sv:Slaget vid Las Navas de Tolosa]]
[[tr:Las Navas de Tolosa
[[ur:معرکہ العقاب]]
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