「直江兼続」の版間の差分

兼続は新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れた。[[米沢城]]下を流れる[[最上川]]上流には3キロメートルにわたって石が積まれ、川の氾濫を治めるために設けられたこの堤は「直江石堤(なおえせきてい)」と呼ばれている。[[新田]]開発に努め、[[表高]]30万石に対して[[内高]]51万石と言われるまでに開発を進めた。また、町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど[[米沢藩]]の藩政の基礎を築いた。
 
上杉家と徳川家の融和を図り、るなど[[本多正信]]とも交流がありを持ち、慶長14年([[1609年]])には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど上杉家に大きく貢献している。また、正信の息子である[[本多政重|政重]]一時兼続の養子となっていた時期る。り、政重とは養子縁組が解消されても親交が続いている。
 
慶長19年([[1614年]])からの[[大坂の役|大坂の陣]]においても徳川方として参戦し、[[鴫野の戦い]]などで武功を挙げた。
 
[[元和 (日本)|元和]]5年12月19日([[1620年]]1月23日)、江戸鱗屋敷で病死した。享年60。
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