「テリー・ゴディ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
25行目:
以降、[[ヒール (プロレス)|ヒール]]のタッグチームとして[[テキサス州]][[ダラス]]を中心に全米で活躍。[[1982年]]からは[[バディ・ロバーツ]]を加えて3人組となり、ダラスの英雄エリック兄弟([[ケビン・フォン・エリック|ケビン]]、[[デビッド・フォン・エリック|デビッド]]、[[ケリー・フォン・エリック|ケリー]])との抗争は凄まじい人気を得た。ヘイズとは[[1981年]]に[[ジョージア州|ジョージア]]地区で一時的に仲間割れし、ゴディは[[ジミー・スヌーカ]]を、ヘイズは[[テッド・デビアス]]を新パートナーに抗争を展開したこともある。
 
[[1983年]]8月に[[全日本プロレス]]に初来日。日本での[[テリー・ファンク]]引退試合での[[ザ・ファンクス]]の対戦相手として、[[スタン・ハンセン]]のパートナーに起用された(テリー・ファンクは後に現役復帰)。翌年にはフリーバーズでの来日も実現したが、ゴディ全日本の常連となる(これが原因でフリーバーズは活動停止となってしまった)。デビュー間もない頃に教えを受けた[[ルー・テーズ]]直伝の[[パワーボム]]を[[フィニッシュ・ホールド]]として頭角を現す。テリー・ゴディのパワーボムは技を決めた後に、そのままフォールの体勢に持ち込むのが特徴で、それ以降多くの日本のレスラー達が使うようになった。[[1988年]]には[[スタン・ハンセン]]とのタッグで[[世界タッグ王座]]を獲得。また同年の[[世界最強タッグ決定リーグ戦]]を制覇した。[[1990年]]3月「殺人医師」こと[[スティーブ・ウィリアムス]]とタッグチーム「[[殺人魚雷]]」を組み、世界最強タッグ決定リーグ戦を[[1990年]]、[[1991年]]と二連覇する等活躍した。シングルでも1990年[[6月5日]]に[[ジャンボ鶴田]]から[[三冠ヘビー級王座]]を奪取している。意外にも外国人で三冠王者になった第一号は、ハンセンではなくゴディである。この時29歳だったが、20代の三冠王者はゴディと[[小橋建太]]の二人だけである。既に世界タッグ王者でもあったため、史上初の[[五冠王]]だった。また、全日本のリングに上がる前年の[[1982年]][[3月1日]]に[[ジャイアント馬場]]の[[PWFヘビー級王座]]に[[ジョージア州]][[アトランタ]]で挑戦しており、日本にもその試合が中継されている。
 
[[1984年]]8月にはフリーバーズとして[[WWE|WWF]](現WWE)にも加入。[[シンディ・ローパー]]とのコラボレーションも実現したが、メンバー個々をシングルプレイヤーとして売り出そうとしたWWFに反発して2週間で離脱。<!--- [[ニューヨーカー]]の[[ビンス・マクマホン]]に『FREE BIRD』を「田舎(南部)臭い」と言われたことが原因とされている。※当時の彼らはWWF入りする以前から『FREE BIRD』ではなくマイケル・ヘイズの歌う"Badstreet USA"を入場曲に使っていたので、この話は眉唾もの。フィクションとしては面白いですが。-->その後、フリーバーズはダラスのWCCWを主戦場に[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]やUWF([[ビル・ワット]]主宰)などにも参戦するが、[[1988年]]に一旦解散した
 
[[1992年]]にスティーブ・ウィリアムスと共に[[WCW]]入りし、[[スコット・スタイナー]]、[[リック・スタイナー]]のスタイナー兄弟と抗争する。WCWは当時[[新日本プロレス]]と提携し、スタイナー兄弟は新日にも登場したがゴディ、ウィリアムズは全日本との契約は終了していたものの、全日本との関係を重視して登場しなかった。なお、ウィリアムスはゴディとのタッグの経験から試合展開の技術について色々いろいろと学ぶところがあったという。
 
[[1993年]]8月、全日本のシリーズを欠場。内臓疾患ということになっていたが、実際は一度、全日本参戦中に心停止したことがあり、病院に担ぎ込まれたというのが真相である(以下のエピソード含め、[[和田京平]]の著書『人生は3つ数えてちょうどいい』より。医者からは「ご家族を呼んでください」と言われたものの、突然起き上がって「帰る」などと言い出し、周囲の人間が仰天したというエピソードがある)。1年後の[[1994年]]7月、サマーアクションシリーズ中盤より全日本マットに復帰したものの全盛期の動きには程遠く、これが最後の全日本への来日となった。
36行目:
 
ゴディは非常に強い痛み止めの薬を飲んでいたが、元来の酒豪であり、それと[[ちゃんぽん#形容としての「ちゃんぽん」|チャンポン]]していたと言う。現在で言う[[アナボリックステロイドホルモン|ステロイド剤]]の副作用もあり、精神的にも異常な行動が見えたことからそれが原因で全日本には呼ばれなくなったというのが真相である。IWA・JAPANに参戦時には、控え室で[[尿]]を垂れ流していたなどの行動も見られたという。持病の[[心臓病]]が悪化し、[[2001年]][[7月16日]]に[[テネシー州]][[チャタヌガ]]の自宅で[[心不全]]で急死。40歳の若さであった。最後の来日は同年[[2月4日]]のIWA[[横浜文化体育館]]大会。死の直前に、[[プロレスリング・ノア]]を発足させた[[三沢光晴]]と旧交を温める様子がプロレスマスコミに流れたが、本人がノアに上がることはなく、一時息子のレイ・ゴディがノアに参戦するにとどまった。[[ジャンボ鶴田]]が苦手意識を持った数少ないトップレスラーで、[[1990年代]]前半には[[プロレス四天王]]の大きな壁として立ちふさがった名レスラーであったことから、ファンからは体調管理の甘さが悔やまれている。
 
== タイトル履歴 ==
* [[三冠ヘビー級王座]]
* [[世界タッグ王座]]
* WCCW6人タッグ王座
* [[WCW]]世界タッグ王座
 
== 得意技 ==
67 ⟶ 61行目:
; [[フィッシャーマンズ・スープレックス]]
: 柔軟性もあり好んでこの技を使用した。
 
== 獲得タイトル履歴 ==
; [[全日本プロレス]]
* [[三冠ヘビー級王座]]:2回
* [[世界タッグ王座]]:7回(w / [[スタン・ハンセン]]×2、[[スティーブ・ウィリアムス]]×5)
 
; [[テネシー州|テネシー]]
* NWAミッドアメリカ・タッグ王座:2回(w / [[マイケル・ヘイズ]])
 
; [[ビル・ワット|MSWA / UWF]]
* ミッドサウス・タッグ王座:2回(w / マイケル・ヘイズ×1、[[バディ・ロバーツ]]×1)
* ミッドサウス・ルイジアナ・ヘビー級王座:1回
* ミッドサウス・ミシシッピ・ヘビー級王座:1回
* UWF世界ヘビー級王座:1回
 
; [[ジョージア州|ジョージア]]
* NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / マイケル・ヘイズ)
* NWAナショナル・タッグ王座:4回(w / マイケル・ヘイズ×3、[[ジミー・スヌーカ]]×1)
 
; [[アラバマ州|アラバマ]]
* NWAアラバマ・ヘビー級王座:1回
* NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:1回
 
; [[ダラス|WCCW / WCWA]]
* NWAアメリカン・ヘビー級王座:1回
* NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / マイケル・ヘイズ)
* NWA世界6人タッグ王座(テキサス版):6回(w / マイケル・ヘイズ&バディ・ロバーツ×5、バディ・ロバーツ&[[キング・パーソンズ|アイスマン・パーソンズ]]×1)
* NWAブラスナックル王座(テキサス版):1回
 
; [[WCW]]
* [[NWA世界タッグチーム王座|NWA世界タッグ王座]]:1回(w / スティーブ・ウィリアムス)
* WCW世界タッグ王座:1回(w / スティーブ・ウィリアムス)
 
; その他
* GWFタッグ王座:1回(w / [[ジム・ガービン|ジミー・ガービン]])
* SMWヘビー級王座:1回
 
== 関連項目 ==
73 ⟶ 103行目:
* [[リチャード・スリンガー]]
* [[スティーブ・ウィリアムス]]
* [[マイケル・ヘイズ]]
* [[ファビュラス・フリーバーズ]]
 
== 外部リンク ==