「観世流」の版間の差分

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Sat666 (会話 | 投稿記録)
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== 大鼓方 ==
[[大鼓]]方観世流(旧名・宝生錬三郎派)は初め観世流座付、後に宝生座座付の大鼓方。
 
流祖は小鼓方観世流三世・又次郎重次の長男・勝次郎重政(~[[1631年]])。後に小鼓方観世流四世を継いだ弟の新九郎豊勝との「[[道成寺]]」共演の記録も残っている。後、二世彦三郎元貞、三世庄次郎一貞と続くが、一貞に後継がなく一度中断した。
流祖は小鼓方観世流九世観世豊重([[1672年]]〜[[1688年]])の四男・観世弥三郎信方([[1672年]]〜[[1718年]])。大鼓は小鼓の連調から発達した職掌であるため、その独立は、他の囃子方観世流に比べても遅いものであった。
 
[[16941683年]]、[[宝生流]]を好んだ[[徳川綱吉]]の命小鼓方観世流六世・新九郎豊重が宝生大夫相手の道成寺を断、追放される事件が起こった。翌年、宝生座付を命ぜられとして復帰したが、その際家元家もを「宝生」に改めさせられた。ただし三世・宝生信春がその嗣を欠いたときには、観世流小鼓方十三世観世と合う大鼓が宝生座にいなかったためか、[[1694年]]、綿の三男・弥三郎豊羨重堅養子入するなど宝生座大鼓方として新規に召抱えられ血縁・芸系の面宝生姓観世流方と交渉を保ちつづけが復活しらしい{{要出典}}
 
後に観世流小鼓家は観世座に復帰が許され、姓も観世に戻したが、大鼓家は宝生座にとどまり、以後幕末まで宝生姓であった。流勢はあまりふるわず、維新時の家元・八世錬三郎恭寛は維新後の動静が分からない。豊後竹田出身の加藤八百作(~[[1919年]])がその芸系を継承したが、その後継である守家金十郎父子のみが、昭和に活動した玄人であった。
以上のような事情により、維新後は長らく一流と認められず、「大鼓方宝生錬三郎派」とされてきたが、岡山の守家金十郎らの運動により、[[1986年]]に観世流として認められた。現在は金十郎の孫・[[守家由訓]]が宗家代理をつとめる。[[能楽協会]]に登録された役者は、[[2009年]]の時点で2人。京阪を主要な地盤とする。
 
以上のような事情により、維新後は長らく一流と認められず、「大鼓方宝生錬三郎派」とされてきたが、岡山の守家金十郎らの運動により、[[1986年]]に本来の流儀名である観世流として認められた。現在は金十郎の孫・[[守家由訓]]が宗家代理をつとめる。[[能楽協会]]に登録された役者は[[2009年]]の時点で2人。京阪を主要な地盤とする
 
== 太鼓方 ==