「朝日軍道」の版間の差分

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朝日軍道は、[[上杉景勝]]の家臣、[[直江兼続]]によって開削された。[[1598年]]([[慶長]]3年)、上杉景勝は、[[豊臣秀吉]]の命により、[[越後]]から[[蒲生氏郷]]が治めていた[[会津]]へと移封された。これにより、上杉の所領は、会津、[[中通り|仙道]]、[[置賜地方|置賜]]、[[庄内地方|庄内]]、[[佐渡]]の120万石となった。佐渡は別として庄内地方以外の各所領は地続きになっていたが、庄内地方のみ[[飛地]]となっており、景勝の居城である[[会津若松城]]から庄内に向かうには、必ず他国を経由せねばならなかった。
 
特に、[[村山地方]]を領有していたのは梟雄として知られた[[最上義光]]であり、上杉と最上は、お互いに領内の動向に目を光らせる宿敵の関係にあった。一方の越後経由のルートも、かつての上杉の所領であったため、新領主となった[[堀秀治]]は、旧領主を追慕する領民を抑えるために上杉の動向に対して過敏に目を光らせていた。そこで、[[米沢城]]を居城とし、[[置賜]]を領有していた上杉氏家臣の[[直江兼続]]は、置賜と庄内をダイレクトに結ぶ道路として、[[朝日連峰]]の嶺を伝い、途中麓に降りることのない、馬が通れる軍道を開削することにし、苦労の末に1年あまりで秘密裏に完成させた。
 
朝日軍道のルートは、もともと長井葉山、大朝日岳などが[[修験道]]の[[聖山]]として崇拝されており、[[山伏]]が行きかっていたことから、その間道を整備し、接続することで結ばれたため、比較的短時間で完成する人が出来たが、それでも、数百人にも及ぶ人夫が動員されたといわれる。なお、上杉家に残された文書では、朝日軍道ではなく「'''庄内新道'''」とされている。