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[[満州事変]](九・一八事変)勃発後の[[1932年]](民国21年)、易培基は、故宮博物院の文物を南京・上海に移転する計画を実施し、翌年5月までにこれを完了させている。ところがこの際に、文物の横領・詐取があったとの疑いが持ち上がり、易自身も捜査の対象となった。そのため10月に故宮博物院院長を辞任し<ref>『民国職官年表』によれば、1933年7月に、後任の[[馬衡]]が就任したとしている。</ref>、天津の日本租界を経由して上海に移り、隠居せざるを得なくなる。
 
その後も、疑惑への追及は続き、易培基は[[1937年]](民国26年)2月に、失意と憤怒の中で病没した。享年58(満5657歳)。易は逝去の際に、[[国民政府]]宛てに無実を主張する文を送っており、易の無実を信じる支持者も多かった。しかしその後、この件につき捜査は行われなかった。また、関与した人物たちも様々な証言を行っていることから、易がそもそも犯罪に関与していたのかも含め、実態は依然として不詳のままである。
 
== 注 ==