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== 経歴 ==
[[松平康親]]の長男(但し[[徳川家康]]の[[落胤]]説有り)。母は[[松平重吉]]の娘。実名は[[天正]]11年([[1583年]])3月16日(旧暦)の[[元服]]の際に家康の[[偏諱]]「康」の字を賜り康次、のちに康重と改めた。父と共に[[徳川家康]]に仕える[[三河松井氏]]の一族であったが、父の代からすでに松平姓を賜っていたため、康重も松平姓を名乗った。家康が東海地方にいた頃の[[天正]]11年([[1583年]])- [[天正]]18年([[1590年]])には父康親に継いで[[駿河国]][[沼津城]]の守備役を務め、[[後北条氏]]に約8年間も対峙した。
 
武田勝頼との[[長篠の戦い]]では[[酒井忠次]]の鳶ノ巣山奇襲隊に参戦し奮戦するがその時に武田軍から撃たれた[[火縄銃|鉄砲]]で負傷しその鉄砲玉が生涯、体内にあったという。
 
家康が[[東海地方]]にいた頃の[[天正]]11年([[1583年]])- [[天正]]18年([[1590年]])には父康親に継いで[[駿河国]][[沼津城]]の守備役を務め、[[後北条氏]]に約8年間も対峙した。

[[小田原征伐]]後の天正18年8月に家康が関東に移されると、康重は武蔵国騎西藩に2万石を与えられた。[[慶長]]6年([[1601年]])に、常陸国笠間藩3万石に加増。さらに慶長13年([[1608年]])には丹波国篠山藩5万石に加増移封。[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])には和泉岸和田藩に移封となった。寛永17年(1640年)6月27日、73歳で死去し、後を次男の[[松平康映]]が継いだ。
 
墓所:[[京都]]の[[金戒光明寺]]。法号:長安院殿竜誉浄和。[[大阪府]][[岸和田市]]南町の心蓮寺跡にも墓がある。