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新規作成・秩父事件困民党総理
 
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農業を営むかたわら、他者の賃借などについて仲裁を行ったり、困窮者の手助けを行ったり、放浪者を救ったりするなど義侠心に厚く、秩父の郡民からは非常に信頼されており、子分と称する者は200人を越えるほどだったという。しかし、明治に入ると微禄し、高利貸しから借金をするほどになっていた。
 
明治17年([[1884年]])初頭(1月下旬から2月上旬頃)には[[自由党 (日本)|自由党]]へ加入をするが、その手続きの後に党員の村上泰治から傲慢な態度を取られたため憤慨し、その後は関わりを持っていない。
 
同年9月、困民党に招聘され、総理に推挙される。そして議論の末に蜂起を決定し、10月31日に蜂起を開始。だが11月3日に持病の胸痛を起こしたため指揮系統から外れ、翌4日には本陣を離脱。その後逃避して11月11日まで山に籠もり、11月14日に黒谷村(後に[[原谷村 (埼玉県)|原谷村]]、現在は秩父市)の知人宅に宿泊。しかしその家の下働きの老女に密告され、翌15日未明、就寝していたところを警官隊に踏み込まれて捕縛された。