「蘆名義広」の版間の差分

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[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]で兄の[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]が西軍に与したために所領を没収され、慶長7年([[1602年]])、実父佐竹義重・実兄義宣とともに[[久保田藩|秋田領]]に入り、名を義勝と改め、[[仙北郡]][[角館]]に1万6,000石を与えられた。
 
改名して蘆名義勝となった義広は、それまでの城下が河川の氾濫や火災にしばしば悩まされていたところから、[[元和 (日本)|元和]]6年([[1620年]])古城山の南側に新たに町割を起こし、城下を移転させた。これが今日の角館城下町の始まりである。道路の幅員を広げるとともに見通しを避ける工夫をこらし、下水を整備し、防火対策を施して武家地、町人地、寺社を配置した。当初は古城山の中腹に館を構えたが、義勝夫人が城中で妖怪を視たため居館を麓に移したという伝承がある。角館に随従した蘆名家家臣には、稲葉家、河原田家、岩橋家、青柳家などがあり、総勢は200名程度だったといわれる。あわせて、会津若松にあった[[天寧寺 (会津若松市)|天寧寺]]の末寺として山号・寺号そのままに角館城下東方の花場山の麓に[[天寧寺 (仙北市)|天寧寺]]を創建、菩提寺とした。
 
寛永8年([[1631年]])、病死。