「ギル・ホッジス」の版間の差分
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そこから持ち直し、第4戦で逆転本塁打とダメ押しタイムリーを打ち、第5戦でも先制本塁打を打ちチームを連勝に導く。
3勝3敗で迎えた第7戦では1-0とリードした6回表に追加点となる犠牲フライでピー・ウィー・リースを還し、2-0の勝利、そしてワールドシリーズ制覇に貢献。
当時、ワールドシリーズMVPはなかったが、あれば間違いなくMVPに選ばれていたであろう活躍であった。[[1956年]]もリーグ優勝を果たすが、[[1956年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では[[ドン・ラーセン]]の[[完全試合]]もあってヤンキースに苦杯を飲まされる。この年、ドジャースが[[日米野球]]で来日。第1戦となった[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦では、[[堀内庄]]から、ジャッキー・ロビンソンに続いて[[後楽園球場]]のレフト場外に場外本塁打を打った。この打球は、白川通りまで飛んだとも言われる。もしそれが事実だとすれば200mは飛んだことになるが、打たれた堀内が、「あの一打を打たれたことは名誉」と語っていた。
[[1957年]]にはナ・リーグ記録となる通算12本目の満塁本塁打を打つ。(後に通算満塁本塁打は14本まで伸ばし、ナ・リーグ記録は[[1974年]]まで持っていた。)この年、自身最後のオールスターにも選ばれた。
また、この年から表彰されるようになった[[ゴールドグラブ賞]]に選ばれ、以後3年連続で受賞。
[[1958年]]にドジャースは[[ロサンゼルス]]に移転。この年、ナ・リーグ史上7人目の通算300号本塁打を達成。
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膝の故障もあり、引退も考えたが説得されメッツで現役を続行。
54試合の出場に終わったが、チーム初本塁打を記録。[[1963年]][[5月]]に交換[[トレード]]で[[テキサス・レンジャーズ|ワシントン・セネタース(現在のテキサス・レンジャーズ)]]に移籍するが、セネタースではプレイすることはなかった。
=== 監督として ===
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ベラが後任監督に就任し、[[1973年]]には2度目の[[1973年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]出場を果たした。
メッツでは[[背番号]]「'''14'''」が[[永久欠番]]となっている。
==受賞歴・記録==
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▲*通算370本塁打は、現役引退当時[[ナショナルリーグ|ナ・リーグ]]の右打者のレコードで、メジャー歴代10位であった。
▲*現役時代の活躍、監督としての成功がありながら、[[アメリカ野球殿堂]]入りは果たせていない。下記のような理由が考えられる。
▲**[[最優秀選手 (MLB)|最優秀選手(MVP)]]をはじめ、主要タイトルを獲得したことが一度もない。
▲**現役時代の打率が.273と低い。通算打率がこれ以下の打者(捕手を除く)で殿堂入りを果たしているのは、守備力に優れた[[ラビット・モランビル]]、通算500本塁打の[[エディ・マシューズ]]、名三塁手でMVP獲得もある[[ブルックス・ロビンソン]]のみである。
▲**三振が少ない時代の選手にしては三振が多く、1958年に通算三振のナ・リーグ記録を更新している。通算1,113三振は、現在では歴代100位にも入らないが、ホッジスよりも三振の多い選手のほとんどはホッジス以後にプレイした選手ばかりである。
▲*ナ・リーグが10球団に拡張される前の[[1961年]]の時点で300本塁打を記録していた選手はホッジスを含めて21人居るが、他の20人は全員殿堂入りを果たしている。
==外部リンク==
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