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'''明和事件'''(めいわじけん)は、[[江戸時代]]中期におこった[[江戸幕府|幕府]]による[[尊王論]]者弾圧事件。
 
[[甲斐国]]出身の[[山県大弐]]は、[[江戸]]へ出て[[兵学]]・[[儒学]]を教え[[大義名分]]に基づく尊王思想を鼓吹し、その一方で[[宝暦]]8年([[1758年]])におきた「[[宝暦事件]]」に連座した[[藤井右門]]は江戸に出て大弐の家に寄宿し、江戸攻略の軍法を説いた。幕府は[[上野国]][[小幡藩]]の内紛にかこつけて両名を逮捕し、[[明和]]4年([[1767年]])[[不敬罪]]として大弐を[[死罪_(江戸時代)|死罪]]に、右門を[[磔刑]]に処した。さらに、[[宝暦事件]]により重追放となった[[竹内式部]]にも累を及ぼして[[遠島]]に処した。また、小幡藩主の[[織田氏|織田家]]([[織田信長]]の三男[[織田信雄]]の末裔)は[[出羽国]]へ転封の上、織田信長の子孫と言うことで認められていた[[国主]]格の待遇も廃された。
 
==関連項目==