「ザンクト・ガレン修道院」の版間の差分

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[[カール・マルテル]]はオトマール (Othmar, 689年頃 - 759年) に聖ガルスがこの地に遺したものの管理を命じた。[[小ピピン]]の治世下でオトマールはザンクト・ガレンに有名な学校を作り、それらの学校では芸術、文学、科学などが花開いた。[[ライヒェナウのヴァルド]]([[:w:Waldo of Reichenau]], 740年 - 814年)が[[修道院長]]だったときに、彼の下で写本の作成が行われ、有名な蔵書が集められていった。そのため、[[アングロ・サクソン]]やアイルランドの多くの僧侶たちが写本を筆写しに訪れた。[[ローマ教皇]][[ハドリアヌス1世]]は[[カール大帝]]の要請を受けて、[[グレゴリオ聖歌]]詠唱を普及していた[[聖歌隊]]をローマから派遣した。
 
10世紀には近隣の修道院である[[ボーデン湖]]の[[ライヒェナウ島|ライヒェナウ]]修道院と争った。だが、924年から933年には[[マジャル人|マジャール人]]に脅かされ、蔵書は安全のためライヒェナウに移された(ほとんどが後に返却された)。
 
13世紀にザンクト・ガレンの修道院と町は独立した[[領邦]]となり、修道院長は[[神聖ローマ帝国]]の[[フュルスト]]([[諸侯]]、[[侯|侯爵]])と同格の領主としてこの地を治めた。