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'''ジョン・ケイ'''(John Kay, 本名Joachim Friedrich Krauledat, 1944年4月12日 ドイツ・[[東プロイセン]]ティルシット(現[[ロシア]]・[[カリーニングラード州]][[ソヴィェツク (カリーニングラード州)|ソヴェツク]]) - )は、4歳のときに母親とともに(ドイツ兵であった父親は彼が生まれる1ヶ月前に東部戦線で戦死している)故郷を逃げ出して、[[ソビエト連邦|ソ連]]の支配から逃れるために[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]から[[西ドイツ]]へ移動し(この出来事が、楽曲「レネゲイド」や「ザ・ウォール」(''The Wall'')で語られている)、[[1958年]]に[[カナダ]]へ移住した。
 
ステッペンウルフは、トロントの[[ブルース]]・バンド「ザ・スパロウズ」([[:en:The Sparrows|The Sparrows]])をその原点とする。このバンドは1964年に結成され、トロントのヨークヴィル地区にある[[コーヒー・ハウス]]で活動していた。1967年に彼らは[[サンフランシスコ]]に移住し、[[ブルースロック]]、[[サイケデリック|サイケデリア]]および[[フォークソング|フォークミュージック]]が混合されたエネルギッシュな音楽を演奏した。[[ロサンゼルス]]の[[ABCレコード|ダンヒル・レコード]]のプロデューサーであったガブリエル・メラー彼らに、より強烈なビートを披露するよう提案した。[[ハードロック]]や[[ヴィメタ|マン・ビーメタル]]ッセ先駆者小説の名からなる音楽をもって彼ら'''ステッペンウルフ'''と名乗ることとなっ付けた。オリジナルメンバーは以下の通りである:
 
* [[ジョン・ケイ (音楽家)|ジョン・ケイ]] - [[ボーカル]]、[[ギター]]、[[ハーモニカ]]
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* マイケル・モナーク - [[リードギター]]
* ゴルディ・マックジョン - [[鍵盤楽器|キーボード]]
* ラシュトン・モーヴ - [[エレクトリックベース|ベース]] (1981年に交通事故死)
 
なお、デビューアルバム『''Steppenwolf''』のレコーディング中に、ベーシストがラシュトン・モーヴからジョン・ラッセル・モーガンへ交替している。
 
=== 成功 ===
ステッペンウルフは、映画『[[イデビュジー・ライダー]]』の作中で用いアルバムかシングルカットされた第3シングルの「ワイルドで行こう」と、[[ホイト・アクストン]]の楽曲のカバーである「ザ・プッシャー」の2曲(両曲とも最初は彼らのデビュが映画『[[イアルバム『''Steppenwolf''ジー・ライダー]]』の収録曲としてリリースさ作中で用いられたことによって、世界規模の知名度を得た。「ワイルドで行こう」は、ジェリー・エドモントンの兄で、ザ・スパロウズ時代およびステッペンウルフ時代初期のリードギタリストであったデニス・エドモントンによって制作された。デニスはソロ活動を行うためにステッペンウルフを脱退し、[[マーズ・ボンファイヤー]]([[:en:Mars Bonfire|Mars Bonfire]])名義で活動した。「ワイルドで行こう」はチャート2位を記録した。この曲は、ロックの歌詞に「[[ヘヴィメタル|ヘビーメタル]]」という言葉を織り込んでいる(実際には、この言葉は音楽のジャンルではなくバイクを表している)。
 
この曲に続いていくつかのヒットソングが発表された。例を挙げると、セカンドアルバム『''Steppenwolf The Second''』収録の「マジック・カーペット・ライド」(チャート3位)、サードアルバム『''At Your Birthday Party''』収録の「ロック・ミー」(''Rock Me'', チャート10位)などである。多くのファンが、2枚組アルバム『''Steppenwolf Live''』をステッペンウルフの作品の中で最高の作品だと評価しているが、ジョン・ケイは自叙伝『''Magic Carpet Ride''』で個人的にこのアルバムが嫌いであると述べている。
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=== 解散と再結成 ===
ステッペンウルフは1971年、同じく政治的コンセプトのアルバム『''For Ladies Only''』のリリースをもって解散し1972年のバレンタインデイに突然活動休止を発表。ケイはソロ活動に移行する(この活動は成功したものの、無節操なものであった)。1974年にはステッペンウルフが再結成されてアルバム『''Slow Flux''』をリリース、収録曲「ストレート・シューティン・ウーマン」(''Straight Shooting Woman'')が小規模なヒットを記録した後、[[1976年]]に再度解散。1977年から1980年にかけては[[ツアー]]のための再結成が行われ、かつてのメンバーであるニック・セント・ニコラス、ゴルディ・マックジョン、ケント・ヘンリー、ラシュトン・モーヴなどを起用したさまざまな形態で活動を行ったが、ケイ本人は参加しなかった。フィル・スペクターのプロデュースにより新しいスタジオ・アルバムが1978年に企画されたが、断念された。別のアルバム『''The Night Of The Wolf''』は1979年に録音が行われたものの、リリースされなかった。さらに3番目のアルバムが1980年に録音されたが、法的手段によって中止させられた。ケイの自叙伝によると、新たなステッペンウルフは結局元のバンドの殻に過ぎないと分かり、バンドの評判が低下してしまう原因となった。数件の訴訟が起こされ、バンドの名を守るためにジョン・ケイは[[1980年代]]初頭に新たな形態のステッペンウルフを結成し、'''ジョン・ケイ・アンド・ステッペンウルフ'''名義でツアー活動を行うようになった。2001年にはソロ・アルバムもリリースしている。
 
== ディスコグラフィ ==