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紛争の初期段階にあった数か月の間に、ユーゴスラビア人民軍の部隊は、サラエヴォを取り囲む丘陵地帯に配置された。[[大砲]]やそのほか多くの装備はこのときに持ち込まれたものであり、後に続く包囲戦において重要な役割を果たすことになる。[[1992年]]2月、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、ユーゴスラビア政府に対して、これらのユーゴスラビアの軍の配備を中止するよう求めた。このときのユーゴスラビアを事実上支配していた[[セルビア共和国 (1992年-2006年)|セルビア共和国]]の大統領[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]は、ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境の外側にいるユーゴスラビア人民軍の一部を撤退させることに同意した。しかし、これらのユーゴスラビア人民軍に属していたセルビア人兵士らは、[[スルプスカ共和国軍]]となってボスニア・ヘルツェゴビナ国内にとどまり、ボスニア・ヘルツェゴビナからのスルプスカ共和国の独立を宣言した。
 
1992年5月2日、ボスニアのセルビア人勢力によるサラエヴォの完全封鎖が完成した。町へと続く主要な道路は封鎖され、食料や医療品の運び込みも不可能となった。水や電気、暖房システムは遮断された。多くのセルビア人兵士らがサラエヴォを取り巻いていた。町を守るボスニア政府軍は数の上ではセルビア人勢力を上回っていたものの、セルビア人勢力はユーゴスラビア連邦から装備を引き継いでおり、また町を見下ろす丘の上に陣取っていただめ、地理的な面からも圧倒的優位にあった。ユーゴスラビア人民軍の部隊が町を制圧しようとした最初の武力衝突が失敗に終わったあと、サラエヴォを包囲するセルビア人勢力は、丘の上から繰り返し町への砲撃を加え続け、町を弱らせた。セルビア人勢力は町を取り巻く丘を、少なくとも200を超える強化陣地と[[トーチカ]]によって要塞化した<!-- fortified into at least two hundred reinforced positions and bunkers. -->。
 
=== サラエヴォ包囲 ===