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[[天正]]10年([[1582年]])には、[[松代城|海津城]]主となり父の旧領を回復する。天正18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐|小田原攻め]]では上杉軍の先鋒を務めて活躍する。
 
慶長3年([[1598年]])、景勝の[[会津]]移封に従って塩之森城代となった。<br/>慶長5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]にも参陣したとも、{{要出典範囲|景勝には従わずに[[信濃国]]へ戻り旧臣を募り[[村上氏]]再興を謀ったが叶わず浪人した}}ともいわれているが、以後の消息は不明である。勇猛な武将であったと言われている。
 
山浦家は後に、景勝の[[桂岩院|側室]]の実家[[四辻家]]出身の[[山浦光則]]が家名を継いだ。<!--光則が景国の養子となったのは寛永11年(1635年)に米沢に亡命した後のことですので、景国は既に死去した後である可能性が強いと思うのですが。-->
 
{{DEFAULTSORT:やまうら かけくに}}