「手塚治虫」の版間の差分

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校名、地名
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長男に[[手塚眞]]、長女に[[手塚るみ子]]、次女に[[手塚千以子]]がいる。また、姪に声優の[[松山薫]]、甥に俳優の[[手塚とおる]]。
 
[[大阪府]][[豊能郡]]豊中町(現在の[[豊中市]]に出生、5歳から[[兵庫県]][[宝塚市|宝塚]]に育つ。[[旧制中学校|旧制中学]]で大戦期を過ごし、[[大阪大学|大阪帝国大学]][[旧制専門学校#医学|附属医学専門部]](正確<!--(1944年4月は「大阪帝国大学臨時附属医学専門部から改称--><ref>大阪帝国大学附属医学専門部は、手塚が在学中の1947年10月に大阪帝国大学が大阪大学へ改称されたことに伴い大阪大学附属医学専門部と改称した。</ref>在学中の[[1946年]][[1月1日]]に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。[[1947年]]、[[酒井七馬]]原案の描き下ろし単行本『[[新宝島]]』がベストセラーとなり、大阪に[[赤本 (少年向け本)|赤本]]ブームを引き起こす。[[1950年]]より漫画雑誌に登場、『[[鉄腕アトム]]』『[[ジャングル大帝]]』『[[リボンの騎士]]』といったヒット作を次々と手がけた。
 
[[1963年]]、自作をもとに日本初のTVアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながるTVアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1960年代後半より一時低迷するも、『[[ブラック・ジャック]]』『[[三つ目がとおる]]』『[[ブッダ (漫画)|ブッダ]]』などにより復活。また『[[陽だまりの樹]]』『[[アドルフに告ぐ]]』など青年漫画においても傑作を手がける。
== 生涯 ==
=== 出自 ===
手塚治虫、本名治は[[1928年]][[11月3日]]、[[大阪府]][[豊能郡]]豊中町(現在の[[豊中市]])に、父・手塚粲(ゆたか)と母・文子の長男として生まれた。[[明治節]]に生まれたことから「明治」にちなんで「治」と名づけられた<ref>桜井、22p</ref>。父方の曽祖父[[手塚良仙]]は[[適塾]]に学んだ蘭方医であり、[[18571858年]]に[[東京江戸]]の神田お玉ヶ池[[種痘]](現在の[[東京大学]]医学部の前身)を設立したグループの一人でもある。その生涯は治虫の晩年の作『[[陽だまりの樹]]』で[[フィクション]]を交えつつ描かれており、[[福澤諭吉]]『[[福翁自伝]]』にも記録が残っている。祖父にあたる[[手塚太郎]]は司法官であり、[[1886年]]に創立された[[関西法律学校]](現[[関西大学]])の創立者の一人である。[[大阪地方裁判所]][[検事正]]から名古屋[[控訴院]][[検事長]]、長崎控訴院長などを歴任している。
 
父・粲は[[住友金属工業|住友金属]]に勤める会社員であり、[[カメラ]]を愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回し映写機([[パティベイビー]])を所有しており、治虫は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにして[[チャールズ・チャップリン|チャップリン]]の喜劇映画や[[ウォルト・ディズニー|ディズニー]]のアニメ映画を観ることができた<ref>手塚(1997)、17-19p</ref>。もっとも治虫はこの父を強権的で母に無理を押し付ける亭主関白としても回想している<ref>桜井、34-38p</ref>(なお治虫の作品に父親の存在が希薄であることはしばしば指摘されている<ref>桜井、34p</ref>)。母・文子は陸軍中将の娘で厳しいしつけのもとに育ち、夫には絶対服従であったが、戦中に夫が召集された際は生活費の捻出や畑仕事から隣組の役員まで勤める働き振りを示したという<ref>桜井、37p</ref>。この母は当時としては変わり者で、治虫に漫画本を買い与えただけでなく、登場人物ごとに声音を使い分けて幼少期の治虫に漫画本を読み聞かせていた。幼少期の手塚の家には『[[のらくろ]]』シリーズをはじめ200冊もの漫画本があったという<ref>手塚(1997)、10-12p</ref>。またのちに治虫の実子[[手塚眞]]が治虫の書斎で『のらくろ』を読んでいたところページの隅にパラパラ漫画を発見し、てっきり治虫によるものだと思っていたら、後で治虫の母が描いたものだったと判明したというエピソードもある<ref>桜井、40p</ref>。
 
=== 幼少期 ===
[[1933年]]、治虫が5歳のときに一家は[[兵庫県]][[宝塚市|宝塚]]に移った。戦前の宝塚は田園風景の中に新興の住宅地が散在し、その中心に[[宝塚大劇場]]、[[宝塚ファミリーランド]]の前身の宝塚新温泉や宝塚ルナパークなどの施設が立ち並び一種の異空間を形作っていた<ref>桜井、24-28p</ref>。このような人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる<ref>夏目、70-71p</ref>。父は[[宝塚ホテル]]のなかに作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治虫は父に連れられてホテルのレストランで食事をし、母には歌劇団に連れて行ってもらっていた<ref>桜井、31p</ref>。また手塚家の隣家は宝塚歌劇団の実力者である[[天津乙女]]の家であり、歌劇学校に入学したい娘が保護者とともにお百度を踏む光景がよく見られたほか、歌劇団の女性と接する機会も多かった<ref>手塚(1999)、20p</ref>。
 
[[1935年]]、池田師範付属小学校(現[[大阪教育大学附属池田小学校]])に入学。体が小さく、また小さい頃から[[眼鏡]]をかけていたこともあり学校では「ガジャボイ頭([[天然パーマ]])」などと言われからかいの対象になった。{{要出典範囲|(妹・美奈子の証言によると「兄は背が高かった」「いじめられっ子では無かった」とのこと。マンガになぜああいう描き方をするのか分からない。とも発言している)<!--本人の著書に小柄だったこともいじめられっ子だったことも書かれていますが…。-->}}そのようななかで同級生の石原実と親しくなり、彼の影響を受けて[[昆虫類|昆虫]]や[[科学]]、[[天文学]]に興味を持つようになる<ref>手塚(1997)、6-9p</ref>。手塚家の広い庭は虫の宝庫であり<ref>桜井、32p</ref>、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境であった<ref>手塚(1999)、29p</ref>。ペンネームの「治虫」も甲虫の[[オサムシ]]にちなんで小学4年生のときに作ったものである<ref>手塚(1999)、26-27p</ref>(なお1950年頃までは「治虫」は初期にはそのまま「おさむし」と読ませていた<ref>手塚(1999)、274p</ref>)。
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