「ジャングル大帝」の版間の差分

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== 概要 ==
大阪在住の医生時代は単行本の描き下ろしを中心として来た手塚治虫が、中央で本格的なデビューを飾ったのが本作である。[[学童社]]の月刊漫画誌「[[漫画少年]]」に{{和暦|1950}}11月号から{{和暦|1954}}4月号にかけて全43回を連載した。本来は『密林大帝』として単行本で描き下ろす予定だったのが、上京して偶然訪れた学童社において[[加藤謙一]]編集長の奨めで連載することになった経緯を持つ<ref>手塚治虫『ぼくはマンガ家』大和書房、1979年、pp111-112. </ref>。連載開始時は4ページ、第2回からは扉ページのついた10ページに拡大になり、連載中は最大で16ページになるなど「漫画少年」の看板作品として君臨<ref>清水勲『漫画少年と赤本マンガ 戦後マンガの誕生』ゾーオン社、1989年、pp105-106. </ref>。以後の手塚は、単行本描き下ろしから、月刊漫画誌に仕事を切り替え、大学卒業後は漫画家に専念。[[1952年]]に『[[鉄腕アトム]]』を「少年」で連載を始めるまで、少年誌での手塚の代表的な仕事が本作である。4度にわたりアニメ化され、[[プロ野球]]球団「[[埼玉西武ライオンズ]]」の[[マスコット]]に本作のキャラクターが採用されたことで、世代を越えた認知度を持つ。大の[[ディズニー]]ファンである手塚が、ディズニーの[[アニメーション映画]]『[[バンビ (童話)|バンビ]]』に影響を受けて本作を描き、後にディズニー本家がアニメ版『ジャングル大帝』で育ったクリエイターによりアニメ映画『[[ライオン・キング]]』([[1994年]]公開)が制作されたのではないかと指摘されたことでも知られる。
 
「白いライオン」というアイディアは、手塚がかつて動物の絵本を依頼された際にライオンの絵を白熱灯の下で彩色したところ、電灯の光のために、できあがってみたら色がきわめて薄くて没になった失敗談が発端という<ref>手塚治虫『手塚治虫漫画全集399 手塚治虫のマンガの描き方』講談社、1997年、p228</ref>。ジャングルを舞台とする趣向は、手塚が少年だった[[1930年代]]初めに[[ターザン]]映画などを代表とする秘境冒険映画、猛獣映画など人気を呼んだ[[アメリカ映画]]の影響が指摘されている。具体的には、レオの父親パンジャの名前は[[1934年]]の『パンジャ』という猛獣狩り映画(「ジャパン」を前後入れ替えたアナグラム的な命名という説も一部にある)、設定は[[1933年]]の『密林の王者』などである<ref>石上三登志「手塚少年と幻の戦前映画」『誕生!手塚治虫』霜月たかなか編、朝日ソノラマ、1998年。</ref><ref>桜井哲夫『手塚治虫 時代と切り結ぶ表現者』講談社現代新書、1990年、p83。</ref>。また、[[第二次世界大戦]]後の[[1950年代]]の日本で再びターザン映画が封切られて、その当時の日本の子供向け漫画や[[絵物語]]では、ターザンものやジャングルものは最もポピュラーなジャンルの1つであった<ref>清水勲『「漫画少年」と赤本マンガ 戦後マンガの誕生』ゾーオン社、1989年、pp76-78. </ref><ref>[[米沢嘉博]]『戦後野球マンガ史 手塚治虫のいない風景』[[平凡社新書]]、2002年、pp17-18</ref>。
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