「堀忠俊」の版間の差分

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その後、[[磐城平藩]]主・[[鳥居忠政]]預かりとなり、[[茶道|茶の湯]]のみを楽しみとしていたと伝わる。26歳で没。[[福島県]][[いわき市]]平字胡摩沢にある[[曹洞宗]]淵室山長源寺(徳川家康の命により[[伏見城]]を死守した[[鳥居元忠]]供養のために建てられた寺)の墓域内に香華を手向ける人もなく、ひっそりと五輪塔が建つ。
 
堀宗家のその後であるが、弟たちも[[堀鶴千代|鶴千代]]は早世、季郷(すえさと)は、[[日向国|日向]][[内藤氏]]に仕える。息子の季俊(すえとし)は、[[加賀国|加賀]]の[[前田氏]]に仕え、堀宗家の越後統治は13年で幕を下ろした。
 
一方、主家の没落をよそに、元家老の直寄は着実に出世し、[[長岡城]]を建設、[[新潟町]]の基礎を築き、[[村上城|村上]]の城下町の整備も進める。越後の堀家は直寄の次男[[堀直時|直時]]の家系の[[村松藩]]3万石と直政の五男[[堀直之|直之]]の家系の[[椎谷藩]]1万石が残った。