「梅ヶ谷藤太郎 (初代)」の版間の差分

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協会(当時は東京大角力協会)の最高職だった取締を長く務め、[[大正]]4年([[1915年]])6月場所で弟子の[[梅ヶ谷藤太郎 (2代)|梅ヶ谷]]が引退すると[[雷部屋]]と[[年寄名跡]]を譲って廃業したが、協会は「'''大雷'''」の尊称を贈り[[相談役]]待遇として接していた。
 
昭和3年([[1928年]])6月15日83歳で没。2代目梅ヶ谷が没してから9ヶ月も後だった。[[還暦]]が長生きの基準だった時代の力士としては非常な長命であり、横綱の長寿記録を樹立した。無論現在でもまだ破られていない<ref>現在、健在の元横綱で長寿なのは[[若乃花幹士 (初代)|初代若乃花幹士]]の81歳【[[1928年]]生まれ】である。</ref>。
 
巨体とも伝わるが、実際には歴代横綱の中では小柄な方。右上手を浅く引きつけ左は筈かのぞかせて寄る堅実な取り口だったとされる。前述の通り58連勝を記録、[[平成]]20年([[2008年]])現在でも[[双葉山定次|双葉山]]69連勝、[[谷風梶之助|谷風]]63連勝に次ぐ歴代3位の記録なのだが、当時は記録への関心が薄くほとんど取りざたされる事もなかった。赤子時代の逸話はこの強さから生み出された後世の創作かもしれない。