「野球拳」の版間の差分

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昼の負けはともかく夜の勝負に勝った一行は揚々とこの踊りを松山に持ち帰り、松山の料亭での「残念会」(あくまでも、野球の試合では負けていた)の場で披露した。以後、宴会芸の定番となる。また伊予鉄野球部が遠征する度に野球拳が披露されており、普及の一助となっている。
 
[[1954年]]には野球拳の歌がレコード化され([[若原一郎]] & [[照菊]]「野球けん」([[キングレコード|キング]])、[[久保幸江]] & [[高倉敏]]「野球拳」([[コロムビアミュージックエンタテインメント|日本コロムビア]])、[[青木はるみ]]「野球けん」([[ビクターエンタテインメント|日本ビクター]])の[[競作]])ブームとなった。この時、他地区との間で本家争いが発生。伊予鉄野球部が方々で披露したことが一因であったが、黎明期に松山の料亭で撮影された野球拳の写真が決め手となり、野球拳の詞は前田伍健の[[著作物]]として認知されることになった。
 
前田は自身を[[宗家]]とする[[家元]]制度を取り入れ、本家野球拳の普及発展に尽力した。現在、[[和太鼓]]奏者の[[澤田剛年]]が四代目家元を務める。