「モーゼス・フリート・ウォーカー」の版間の差分

編集の要約なし
|選出方法 =
}}
'''モーゼス・フリート・ウォーカー'''(Moses Fleetwood Walker、 [[1857年]][[10月7日]] - [[1924年]][[5月11日]])は、[[1880年代]]の[[メジャーリーグベースボール]]の野球選手。主なポジションは[[捕手]]。[[オハイオ州]]マウントプレザント生まれ。右投げ右打ち。弟のウェルデイ・ウォーカーとともに、現在メジャーリーグで最初にプレイしたアフリカ系アメリカ人とされている。
 
==来歴・人物==
===球歴===
黒人医師の息子として生まれる。[[1878年]]にオーバリン・カレッジに入学し[[1881年]]には学内の野球チームでプレイしていた。[[1882年]]にウォーカーはミシガン大学に転学、そこでも大学の野球チームに在籍していた。
 
[[1883年]]に当時マイナーのノースウェスタン・リーグに参加していた[[トレド・ブルーストッキングス]]と契約し、チームの捕手を務めるようになった。同年[[8月10日]]、トレドは当時[[キャップ・アンソン]]が率いてたシンシナティ・レッドストッキングス(現[[シカゴ・カブス|カブス]])とのエキシビション・ゲームの開催を行おうとしたのだが、その際ウォーカーが出場するトレドとの試合をアンソンが拒否しようとする出来事が起きている。ブルーストッキングスは[[1884年]]にアメリカン・アソシエーションに加盟、ウォーカーはこの年の5月1日の試合に出場、アフリカ系アメリカ人として初めてメジャーリーグに出場した選手となった。
 
トレドの主力投手だった[[トニー・マレーン]]はウォーカーの能力を高く評価していたものの、「黒人は嫌いだから、彼のサインは見ずに好きな球を投げていた」と語っている。ウォーカーはこの年捕手として41試合に出場<ref>他に外野手として1試合に出場している。</ref>するが、シーズン中に鎖骨を折る怪我をしてしまい、それ以降残りの試合に出場できなかった。またこの年リーグ最多となる72の[[捕逸]](パスボール)を記録している。
 
所属していたブルーストッキングスが破綻した後、ウォーカーは翌[[1885年]]以降クリーブランドやウォーターバリーなどのマイナーの球団で野球をしていた。[[1887年]]にインターナショナルリーグで[[ジョージ・ストーヴィー]]と組んだバッテリーは、アメリカのプロ野球史上最初の「アフリカ系アメリカ人同士のバッテリー」としても知られている。ただ当時はメジャーリーグやマイナーリーグで徐々に「カラーライン」が作られ、アフリカ系アメリカ人の参加を制限するマイナーリーグも増えていった。ウォーカーはそれに追われるように1889年までマイナー球団を転々としながら野球選手として活動していた。最後に所属していた[[シラキュース・スターズ (1890年)|シラキュース・スターズ]]は[[1890年]]にメジャーリーグに加盟するが、それはウォーカーがチームを離れた後だった。
 
===引退後===
野球選手を引退した後の[[1891年]][[4月]]、ウォーカーはシラキュースで白人の暴漢グループに襲われ、反撃した際グループの一人に致命傷を負わせてしまう。逮捕されたウォーカーは正当防衛を主張、[[6月3日]]の評決で無罪となったが、評決の日に裁判所は人でごったがえし、無罪の決定に歓喜の声を上げるものも多かったそうである。その後ウォーカーは[[1908年]]に"Our Home Colony"という題の冊子を出版する。その中身は黒人のアメリカからの移住を勧める内容であったという。[[1924年]]にオハイオ州[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]で死去。
 
==年度別打撃成績==
匿名利用者