「バートリ・アンドラーシュ」の版間の差分

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アンドラーシュは聖職者だったが、1598年に従弟の[[バートリ・ジグモンド]]がトランシルヴァニア公を退位すると、トランシルヴァニアの統治を任された。当初ジグモンドの退位は、ハンガリー王を兼ねるためトランシルヴァニアの宗主権者でもある神聖ローマ皇帝[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]に公位を引き渡すものだった。しかしジグモンドは考えを変え、自分の後継者に従兄のアンドラーシュを選んだのである。
 
アンドラーシュの即位はかつて彼自身が住んでいた[[ポーランド・リトアニア共和国]]の支持を受け、[[オスマン帝国]]からも承認された。しかしアンドラーシュの即位は[[オーストリア・トルコ戦争 (1593年-1606年)|オーストリア・トルコ戦争]]を戦っていた反オスマン同盟に脅威を与え、[[ミハイ・ヴィテアズル|ミハイ勇敢公]]率いる[[ワラキア]]の軍勢、および[[ジョルジョ・バスタ]]率いる[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]の軍勢からなる連合軍からの攻撃を招いた。アンドラーシュの軍勢は1599年10月28日に敵軍に敗れ、[[シンドミニク|チークセンドモコシュ]]近郊のパーストルビクに退却したとき、反バートリ派の[[セーケイ人]]エルデク・バラージュに殺された。
 
トランシルヴァニア議会はミハイ勇敢公を皇帝にしてハンガリー王であるルドルフ2世の代理と見なし、ミハイに忠誠を誓った。