「アパフィ・ミハーイ2世」の版間の差分

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(en:Michael II Apafi17:42, 4 September 2009)
 
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ミハーイ2世は1681年より父の共同統治者となり、[[オスマン帝国]]より公位の相続者として認められた。しかし父ミハーイ1世が死ぬと、オスマン帝国は反ハプスブルク派の[[ハンガリー]]王位供給者だった[[テケイ・イムレ]]をトランシルヴァニア公とした。テケイは1690年頃に短期間トランシルヴァニアを統治したが、自分の配下にある将軍たちが[[ハプスブルク帝国]]軍に敗れると公国を離れた。
 
その間、ミハーイ2世の側近たちは神聖ローマ皇帝[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]と協定を結び、皇帝から公国の行政、経済、文化における独立と宗教の自由を認められた。皇帝はさらにミハーイ2世をトランシルヴァニア公と認め、公国の議会は1691年、幼いミハーイが成人するまで国政を司る行政委員会を設置した。委員会には、バーンフィ・ジェルジが最高責任者として、ベトレン・ミクローシュが大法官として、ベトレン・ゲルゲイが軍司令官として、ハレル・ヤーノシュが財務長官としてそれぞれ席を占めた。予想されるトルコ人の攻撃と、トランシルヴァニアの自治権を制限しようとするオーストリアの計画から公国を守るため、ミハーイは大法官の助言を受けて、同じプロテスタント君主であるイングランド王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]とブランデンブルク選帝侯[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ3世]]を自らの保護者である、と宣言した。
 
イングランドとネーデルラントは皇帝レオポルト1世に圧力をかけてトルコとの戦争を終わらせ、和平条約でトランシルヴァニアの自治権を尊重する内容を盛り込むことを提案した。すなわち、トランシルヴァニアは、ハプスブルク帝国とオスマン帝国の共同宗主権と覇権国の支配の下でミハーイ公に統治されるのが望ましいとしたのである。こうした提案を踏まえ、1698年まで和平条約締結のための交渉が続けられた。