「ギュンター・プリーン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
MelancholieBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: sl:Günther Prien
編集の要約なし
22行目:
彼の最初の航海は、[[アゾレス諸島]]、[[ペンサコーラ (フロリダ州)|ペンサコーラ]]、[[ホバート]]([[タスマニア島|タスマニア]])および[[ファルマス]]と渡るものだった。1925年10月、[[コーク (アイルランド)|コーク]]への航海中嵐に遭い、船は[[ダブリン]]付近で座礁、放棄され、のちに沈没したと発表された。 プリーンとクルー達は[[ブレーマーハーフェン]]へ送られ、そこからハンブルクに着いたとき、プリーンは船員の書類を受け取り、彼が船上で利用したもののコストが彼の給料の6ヶ月分を上回るものだったことが分かった。
 
彼が一人前の船乗りを目指していたことは、彼がすぐに別の全装帆船「オルデンブルク号」と契約したことに表れている(ヨースト・メッツラー(Jost Metzler)著『The Laughing Cow』[http://uboat.net/books/item/201])。ヨースト・メッツラー(後のU-69艦長)はオルデンブルク号(現在の[[:fi:Suomen_Joutsen|Suomen JoustenJoutsen]](フィンランドの白鳥)号)に一般船員として乗船したとき、プリーンの片腕となった。彼は著書『The Laughing Cow: The Story of U 69』の冒頭で、プリーンと彼との関係は当初“非常に緊張した”もので、若い船員であるプリーンが“時々非常に厳しく、不公平だった”と語っている。後に彼らは親友となり、一連の[[南アメリカ]]の港に向かうことになる。彼は航海士の免状と無線通信士の免許を得て「サン・フランシスコ号」の四等高級船員となりハンブルクを出たが、船は霧の中、ホーエヴェーク(Hoheweg)灯台付近で他船と衝突した。
見張り役だったプリーンは取調べのためにブレーマーハーフェンにある海事裁判所海員審判所に招喚されると、原因は悪天候のせいだと主張した。