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''[[クールラントによるアメリカ大陸の植民地化]]も参照''
 
1525年[[プロイセン]]地域のドイツ騎士団領が単独で世俗化し、リヴォニア地域の分団であった[[リヴォニア騎士団]]は孤立した。[[イヴァン4世]]の[[モスクワ大公国]]の脅威に対抗するため、リヴォニアの騎士団は1561年、[[ポーランド王]][[ジグムント2世]]に臣従して世俗化し、[[プロテスタント]]領邦国家クールラント公国となった。時の団長[[ゴットハルト・ケトラー]](初代、在位1561年 - 1587年)の子孫が公位を継承し、首都はミタウ(現在の[[イェルガヴァ]]及び[[クルディーガ]])におかれた。国政は公爵と貴族との合議によって進められた。
 
多くの旧騎士団領が近隣国家に分割されていく中で、公国は長期にわたる[[リヴォニア戦争]]を生き延びた。広大な公爵直轄領における農業経営を成功させ、通商や産業の発展に努め、17世紀中葉までには経済的繁栄を達成していく。第4代公爵ヤーコブ・ケトラー(在位1642年 - 1682年)の時代になると、一時は西アフリカの[[ジェームズ島 (ガンビア)|聖アンドレ島]]、[[カリブ海]]の[[トバゴ島]]を植民地とした。しかし17世紀後半には、再びバルト海の[[覇権]]をめぐる国際戦争に巻き込まれ、衰微していった。また歴代公爵による宮殿や[[庭園]]、[[温室]]などの贅を尽くした建築事業も国庫を圧迫した。