「唐紹儀」の版間の差分

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翌年1月、西南政務委員会が成立すると、唐は常務委員に任ぜられる。さらに同年3月には中山県長となった。しかし次第に広東の実力者である[[陳済棠]]と対立するようになる。[[1934年]](民国23年)10月、陳から武力で脅迫された唐は各職を辞任し、上海に寓居した。
 
[[1937年]](民国26年)、[[日中戦争]](抗日戦争)が勃発すると、唐紹儀は後方に移らず、上海にとどまった。また、親交のあった[[温宗尭]]から親日政権参加を勧められたが、唐はこれを拒否している<ref>かつては鄭則民「唐紹儀」のように、唐紹儀は親日政府参加も選択肢に入れて優柔不断な対応をしていた、という見方が通説であった。しかし近年では、各種史料・証言により、唐は親日政府参加をまったく考えていなかったことが明らかとなっている。このような見方の例として邵桂花「温宗尭」がある。</ref>。
 
しかし翌年9月30日に、日本に利用されることを恐れた[[中華民国国防部軍事情報局|軍統]]により、唐紹儀は自宅で暗殺された。享年79。