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{{元グランプリライダー
[[ファイル:Mick Doohan 1990 Japanese GP.jpg|thumb|250px|マイケル・ドゥーハン(1990年日本GP)]]
| 氏名=マイケル・ドゥーハン
'''マイケル・ドゥーハン'''('''Michael "Mick" Doohan''', [[1965年]][[6月4日]] - )は、[[オーストラリア]]・[[クイーンズランド州]]・[[ブリスベン]]出身の[[オートバイ]][[レーサー]]。[[1992年]]以後のエントリーネームは'''ミック・ドゥーハン'''。[[1994年]]から[[1998年]]まで[[ロードレース世界選手権]]500cc5年連続チャンピオン。兄スコットもオートバイレーサーである。
| Image=Mick Doohan 1990 Japanese GP.jpg
| image-size=250px
[[ファイル:Mick| Doohan 1990 Japanese GP.jpg|thumb|250px|Caption=''マイケル・ドゥーハン(1990年日本GP)]]''
| 国籍=[[オーストラリア]]
| 活動期間=[[1989年のロードレース世界選手権|1989年]] - [[1999年のロードレース世界選手権|1999年]]
| チーム=[[レプソル・ホンダ|ホンダ]]
| レース数=117
| チャンピオン=5(500cc) [[1994年のロードレース世界選手権|1994年]]、[[1995年のロードレース世界選手権|1995年]]、[[1996年のロードレース世界選手権|1996年]]、[[1997年のロードレース世界選手権|1997年]]、[[1998年のロードレース世界選手権|1998年]]
| 優勝回数=54
| 表彰台回数=95
| 通算獲得ポイント=2283
| ポールポジション回数=58
| ファステストラップ回数=46
| 初グランプリ=[[1989年のロードレース世界選手権|1989年]](500cc)<br/>[[日本グランプリ (ロードレース)|日本GP]]
| 初勝利=[[1990年のロードレース世界選手権|1990年]](500cc)<br/>[[ハンガリーグランプリ (ロードレース)|ハンガリーGP]]
| 最終勝利=[[1998年のロードレース世界選手権|1998年]](500cc)<br/>[[アルゼンチングランプリ (ロードレース)|アルゼンチンGP]]
| 最終グランプリ=[[1999年のロードレース世界選手権|1999年]](500cc)<br/>日本GP
}}
'''マイケル・ドゥーハン'''('''Michael "Mick" Doohan''', [[1965年]][[6月4日]] - )は、[[オーストラリア]]・[[クイーンズランド州]]・[[ブリスベン]]出身の[[オートバイ]][[レーサー]]。[[1992年のロードレース世界選手権|1992年]]以後のエントリーネームは'''ミック・ドゥーハン'''。[[1994年のロードレース世界選手権|1994年]]から[[1998年のロードレース世界選手権|1998年]]まで[[ロードレース世界選手権]]500cc5年連続チャンピオン。兄スコットもオートバイレーサーである。
==略歴==
[[1987年]]にTT-F1世界選手権日本ラウンドにプライベートチームから出場、3位入賞し注目を集める。[[1988年]][[スーパーバイク世界選手権]]日本大会第2レースで優勝。ちなみに日本ではこの年まで「マイケル・ドーハン」と呼ばれることが多かった。[[1989年のロードレース世界選手権|1989年]]、同郷の先輩[[ワイン・ガードナー]]のチームメイトとして[[レプソル・ホンダ|ロスマンズ・ホンダ]]チームに加入し、ロードレース世界選手権500ccクラスに本格参戦を始める。[[1990年のロードレース世界選手権|1990年]]に500cc初優勝、[[1991年のロードレース世界選手権|1991年]]ランキング2位となるなど徐々に頭角を現し、ホンダの新エースとしてチャンピオン候補と目されるようになる。
 
[[1992年のロードレース世界選手権|1992年]]シーズン、ホンダは[[ホンダ・NSR500|NSR500]]に不等間隔位相同爆方式のニューエンジン(通称ビッグバン・エンジン)を搭載し、エースライダーとなったドゥーハンに託した。このニューマシンを駆るドゥーハンはヨーロッパラウンドで4連勝。シーズン半ばにしてポイントを大きくリードし、初タイトル獲得を予感させる。ところが、オランダGPでの予選走行中に転倒を喫し、右足に重症を負ってしまう。以降4戦を欠場し、強行出場するも最終戦で[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]の[[ウェイン・レイニー]]に僅差のポイント逆転を許し、王座への執念は実らなかった(レイニーはタイトル3連覇達成)。翌[[1993年のロードレース世界選手権|1993年]]も後遺症に苦しんだが辛抱強く戦い続け、イタリアGPで復帰後初優勝を挙げる。
 
シーズンオフに右足の再手術を受けて臨んだ[[1994年のロードレース世界選手権|1994年]]、右足のフィジカルダメージも癒え、自ら開発と熟成に尽力したNSR500とのマッチングは他を寄せ付けないベストパフォーマンスを発揮。デビュー6シーズン目にして念願のワールドチャンピオンを獲得する。以降、[[岡田忠之]]、[[アレックス・クリビーレ]]らチームメイトの挑戦を退け、1998年までタイトル5連覇という偉業を成し遂げる。特に[[1997年のロードレース世界選手権|1997年]]は15戦中12勝の年間最多勝記録をマークするなど、ドゥーハン専制時代を築きあげた。あまりに続く勝利の山に、'''「走る前から結果がわかってしまうつまらないレース」'''と言わしめるほどの圧倒的な強さを維持し続けた(なぜかスタートだけは上手いアレクサンドロ・バロスが邪魔になり、他のライダーがバロスを抜く間にトップのドゥーハンが安全圏まで逃げると言うレースが多々あった事も事実ではあるが)。
 
しかし、タイトル6連覇のかかる[[1999年のロードレース世界選手権|1999年]]シーズンの第3戦[[スペイン]]GP([[ヘレス・サーキット|ヘレス]])の予選走行中、高速コーナーで激しく転倒し右鎖骨、左手首、右膝を骨折する大怪我を負う。これがきっかけとなり引退を表明。グランプリの"帝王"は第一線から退くこととなった。引退後は[[ホンダ・レーシング]]のGPアドバイザーなどを務め、[[バレンティーノ・ロッシ]]、[[加藤大治郎]]らをサポートした。
 
== スタイル ==
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*1988年 - スーパーバイク世界選手権ランキング13位(ヤマハ)
**鈴鹿8時間耐久ロードレース・リタイア(完走扱い9位)([[平忠彦]]/ヤマハ)
*1989年 - ロードレース世界選手権GP500ランキング9位([[本田技研工業レプソル・ホンダ|ホンダ]])
**鈴鹿8時間耐久ロードレース・リタイア([[ワイン・ガードナー]] / ホンダ)
*1990年 - ロードレース世界選手権GP500ランキング3位 1勝〔ハンガリー〕ロスマンズホンダ / ホンダNSR500)