「川中島バス」の版間の差分

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さらに、臨時給与についても、既に融資や増資を拒否されている状況下においては資金繰りの見込みが立たず<ref name="80-28"/>、3億5千万円の必要資金のうち1億円しか用意できず、支払延期の事態に追い込まれていた<ref name="80-29">『川中島バス80年史 -善光寺平を駆けぬけて-』p29</ref>。労働組合では妥結の方向性を探っていた<ref name="80-28"/>ものの、すでに売却できるような資産もない状況下で、株主と同業他社と金融機関から見放された経営陣がとるべき手段は、もはや1つしか残されていなかった。
 
1983年8月1日、川中島自動車は会社更生法の適用を長野地方裁判所に申請、事実上倒産した。
 
=== 松本電気鉄道傘下で再建へ ===
==== 川中島バスとして再出発 ====
財産保全管理人を努めた弁護士は、不採算路線と人件費に問題があるが、社会的なバスの役割を重視することで更可能という内容の報告書を、同年9月28日に長野地裁に提出した。これを受けて、長野地裁では更生法適用について審理、同年9月30日に更手続きの開始を決定、管財人には[[松本電気鉄道]](松本電鉄)副社長の瀧澤至が選任された<ref name="80-28"/>。管財人選定には、北信の事業の再建は北信の経済界で行うべきという意見<ref name="80-29"/>や、長野電鉄へバス事業の一元化という意見もあった<ref name="80-29"/>が、長野県内でのバス業界においてリーダー的立場である現状<ref name="80-28"/>と、事業の多角化を推進しており雇用吸収力がある<ref name="80-28"/>こと、さらに資金調達力があることが評価されたとみられている<ref name="80-28"/>。確定債権は9億2300万円となったが、長野地裁では1億900万円を免除することとした<ref name="80-32">『川中島バス80年史 -善光寺平を駆けぬけて-』p32</ref>。
 
管財人となった瀧澤は、まず人員整理に着手することになり、管理職の大量退職を含む100人以上の人員整理案を労働組合に提示した<ref name="80-29"/>。労働組合側では、再建に人員整理は不可避であるとして原則受け入れの姿勢をみせ<ref name="80-29"/>、進展には時間を要したものの、[[1984年]]6月には臨時給与の支払い中止と希望退職者募集、労働条件の切り下げに合意した<ref name="80-29"/>。希望退職者は200人を超え、人件費低減にめどがついた<ref name="80-29"/>ため、瀧澤は1984年9月に更生計画案を長野地裁に提出した。更手続開始から1年以内の更生計画案提出は異例の速さといわれた<ref name="80-29"/>が、これは労働組合や経済界の協力が大きかったとみられている<ref name="80-29"/>。同年10月には更計画が認可されたことに伴い、それまでの株主の権利放棄を求めて全額減資とした<ref name="80-29"/>上で、松本電鉄グループが全株式の6割以上を保有<ref name="80-29"/>、残りを川中島自動車の系列会社で保有することになった<ref name="80-29"/>。
 
1984年10月26日には社名を'''川中島バス'''に変更、松本電鉄グループの全面支援による再建が始まったのである
 
==== 経営改善策の成果 ====
また、この時期には高速道路網の整備が進み、日本各地で[[高速バス]]事業への進出が行なわれていた。長野県内でも[[中央高速バス]]伊那・飯田線が高い実績を上げていた<ref name="80-31"/>上、[[長野自動車道]]の豊科以南の区間が開通したことを受け<ref name="80-31"/>、[[1988年]]9月より「[[みすずハイウェイバス]]」の運行を開始した。この路線はかつて運行されていた「みすず急行」の復活ともいえ<ref name="80-31"/>、松本電鉄・諏訪バス・伊那バス・信南交通との5社共同運行で、諏訪バス以外は「みすず急行」での運行事業者である。また、1989年12月には[[阪急バス]]との共同運行により、夜行高速バス「アルペン長野号」の運行を開始した。
 
これらの経営改善策が功を奏し、[[1991年]]3月には債務を全て完済<ref name="80-32"/>、同年6月に更計画は完了<ref name="80-32"/>、川中島バスは7年半ぶりに独立経営の会社として認められることになった。当初計画では、債務の完済には10年かかることになっていた<ref name="80-53">『川中島バス80年史 -善光寺平を駆けぬけて-』p53</ref>が、貸切バス事業の営業成績の伸びが大きく貢献したとされている<ref name="80-32"/>。
 
しかし、経営環境は更計画が開始された時よりも厳しいものとなっていた<ref name="80-32"/>。1985年には信越本線の増発により長野と上田を結ぶ区間の利用者が鉄道に転移したほか<ref name="80-32"/>、戸隠バードラインの地すべりによる閉鎖もあり、収益性の高い観光路線を一部失っていたのである<ref name="80-32"/>。
 
=== 新たな事業展開へ ===
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