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'''児玉 幸多'''(こだま こうた、[[明治1909年]]42年([[1909年明治]]42年)[[12月8日]] - [[平成2007年]]19年([[2007年平成]]19年)[[7月4日]])は、「日本近世農村・交通史の泰斗」と呼ばれた文学博士。[[学習院大学]]名誉教授、学習院大学元学長、[[学習院女子短期大学]]元学長、[[品川歴史館]]名誉館長、[[千曲市]][[名誉市民]]。
 
== 経歴・人物 ==
*[[長野県]][[更級郡]]稲荷山町(現在の千曲市稲荷山)生まれ。
*[[成蹊高等学校 (旧制) |旧制成蹊高等学校]]を経て、[[昭和1932年]]7年([[1932年昭和]]7年)3月に[[東京大学|東京帝国大学]]国史学科を卒業。[[第七高等学校造士館 (旧制)|第七高等学校造士館]]教授を経て、昭和13年([[1938年]](昭和13年)4月学習院教授、昭和25年([[1950年]](昭和25年)3月学習院大学教授、学習院大学文学部史学科主任、学習院女子短期大学学長を経て、学習院大学学長を務める。[[1980年]](昭和55年(1980年)3月の定年退職後、品川歴史館館長、[[東京都江戸東京博物館|江戸東京博物館]]初代館長(1993~1996([[1993]]-[[1996年]])などを歴任。
*出生地で少年期を過ごした[[稲荷山宿|稲荷山町]]は、江戸時代の[[善光寺街道]]最大の宿場町として、かつ明治期まで商都としても栄えた街で、その農村部で育つ。この地は、共に善光寺街道として知られる[[北国街道]]と[[北国西街道]]の事実上の合流点であり、善光寺街道から[[谷街道]]が分岐する交通の要衝でもあった。その影響もあって、東京帝国大学文学部国史学科の卒業論文は「近世初頭における農村の発達」であり、その後も近世の「農村」や「交通史」を研究の中心として、[[1947年]](昭和22年(1947年)に初の著書となる「江戸時代の農民生活」を刊行する。
*日本[[近世]]史の交通史や農村史研究の分野では第一人者となり、[[日本書籍]]の中学校用歴史教科書を執筆していた。また、青少年のための「漫画日本の歴史」などの執筆や[[くずし字]]解読辞典の執筆などもしている。
*学習院大学では[[史学]]の教育・研究に尽力。戦後学習院大学が[[新制大学]]として発足する際、当初史学科を設置する予定であったが、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍総司令部]](GHQ)に「[[皇国史観]]を広める」との誤解を受けたため設置を禁止される。占領終了後から[[末松保和]]らとともに史学科の設置準備に当たり、[[1961年]]に学科が発足すると同大学政経学部から転属し、学科主任に就任した。