「メディチ家」の版間の差分

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'''メディチ家'''('''Medici''')は、[[ルネサンス]]期の[[イタリア]]・[[フィレンツェ]]において銀行家、政治家として台頭。フィレンツェの実質的な支配者<!--[[僭主]]-->として君臨し、後に[[トスカーナ大公国]]の君主となった一族である。その財力で[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェリ]]、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]などの多数の芸術家を[[パトロン]]として支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。
[[画像ファイル:Coat of Arms of Medici.svg|150px|thumb|メディチ家紋章]]
 
== メディチ家の歴史 ==
[[Fileファイル:Giovanni di Bicci de' Medici.jpg|150px|thumb|ジョヴァンニ・ディ・ビッチ]]
[[Fileファイル:Cosimo de' Medici den äldre, porträtt av Jacopo da Pontormo (ca 1518).jpg|150px|thumb|コジモ・デ・メディチ]]
[[Fileファイル:Vasari-Lorenzo.jpg|150px|thumb|ロレンツォ・デ・メディチ]]
=== メディチ家の起源 ===
「メディチ」は「薬」という意味であり<!--《編集注意》伊語で医学や医薬等をあらわす“medico”(“medici”はその複数形)の語源はラテン語の“medicus”であり、英語の“medicine”の語源はラテン語の“medicina”。英語の“medicine”がメディチ家に由来するというのは俗説。-->、先祖は薬種問屋か医師であったのではないかとされており、13世紀のフィレンツェ政府の評議会議員の記録に既にメディチの名前が残されているが、それ以前の経歴や一族の出自に付いてはあまり明らかにされていない。メディチの紋章(金地に数個の赤い球を配する)の由来については、2つの説がある。ひとつは、「メディチ」(Medici)の家名そのものが示すように、彼らの祖先は医師(単数medico/複数medici)ないし薬種商であり、赤い球は丸薬、あるいは吸い玉(血を吸いだすために用いる丸いガラス玉)を表しているという説である。もうひとつは、メディチ家をフィレンツェ随一の大富豪にした当の職業、すなわち銀行業([[両替商]])にちなんで、貨幣、あるいは両替商の秤の分銅を表しているという説である。<ref>メディチの紋章(金地に数個の赤い球を配する)の由来については、2つの説がある。ひとつは、「メディチ」(Medici)の家名そのものが示すように、彼らの祖先は医師(単数medico/複数medici)ないし薬種商であり、赤い球は丸薬、あるいは吸い玉(血を吸いだすために用いる丸いガラス玉)を表しているという説である。
もうひとつは、メディチ家をフィレンツェ随一の大富豪にした当の職業、すなわち銀行業(両替商)にちなんで、貨幣、あるいは両替商の秤の分銅を表しているという説である。
14世紀には銀行家として台頭し、[[フィレンツェ共和国]]政府にもメンバーを送りこむまでになった。[[1378年]]の下層労働者と新興商人が結んだ反乱[[チョンピの乱]]では、メディチ一族のサルヴェストロが活躍するが、反対派のアルビッツィ家らに巻き返されて失敗。サルヴェストロの名は、永くフィレンツェ市民の記憶に残ったというが、一族の勢力は衰えた。そうした中で後のメディチ一族の基礎を作ったのはヴィエーリ・ディ・カンビオ(1323-1395)である。ヴィエーリは[[ローマ教皇庁]]にもつながりを持って、銀行業で成功した。
 
=== 銀行家としての成功 ===
メディチ家は、[[ジョヴァンニ・ディ・ビッチ]](1360年-1429年)の代に銀行業で大きな成功を収める。メディチ銀行はローマやヴェネツィアへ支店網を広げ、[[1410年]]には[[ローマ教皇庁]]会計院の財務管理者となり教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。これは[[教会大分裂]](シスマ)の続くキリスト教界の対立に介入し、バルダッサレ・コッサなる醜聞に包まれた人物を支援し、教皇[[ヨハネス23世 (対立教皇)|ヨハネス23世]]として即位させた賜物であった。[[1422年]]、[[ローマ教皇]][[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]はモンテ・ヴェルデの[[伯爵]]位を授けようとしたが、ジョヴァンニは政治的な配慮から辞退し、一市民の立場に留まった。
 
=== メディチ家とフィレンツェの黄金時代 ===
ジョバンニの息子、[[コジモ・デ・メディチ|コジモ]](1389年-1464年 コジモ・イル・ヴェッキオ)は政敵によって一時追放されるが、1434年フィレンツェに帰還し、政府の実権を握る([[1434年]]から一時期を除き、[[1737年]]までのメディチ家の支配体制の基礎が確立する)。自らの派閥が常に多数を占めるように公職選挙制度を操作し、事実上の支配者としてフィレンツェ共和国を統治した。家業の銀行業も隆盛を極め、支店網はイタリア各地の他、[[ロンドン]]・[[ジュネーヴ]]・[[アヴィニョン]]・[[ブルッヘ]]などへ拡大。メディチ家はイタリアだけでなくヨーロッパでも有数の大富豪となった。
その子である[[ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ|ピエロ]]は、ピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風病みの)と呼ばれ、病弱であった。父コジモ、息子のロレンツォにはさまれてやや印象が薄いが、反メディチ派を抑え込み、メディチ家の黄金時代を維持させることに成功した。一方でパトロンとしては独自の才覚を発揮し、[[レオーネ・バッティスタ・アルベルティ|アルベルティ]]、[[ドナテッロ]]、[[フィリッポ・リッピ]]、[[ベノッツォ・ゴッツォリ]]などが活躍した。[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェリ]]もピエロの代に輩出するのである。
コジモの孫の[[ロレンツォ・デ・メディチ|ロレンツォ]](1449年-1492年)は優れた政治・外交能力を持っていた。イタリア各国の利害を調整する立場として大きな影響力を振るい、信頼を得ていた。[[パッツィ家の陰謀]]への対処に見られるように反対派には容赦無い弾圧を加える一方で、一般市民には気前良く振舞い、また[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェリ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]など多数の芸術家を保護する[[パトロン]]としても知られている。ロレンツォの時代はフィレンツェの最盛期でもあり、「偉大なるロレンツォ」(ロレンツォ・イル・マニーフィコ)と呼ばれた。しかし、銀行経営の内実は巨額の赤字であり、曽祖父ジョバンニと祖父コジモが築き上げたメディチ銀行は破綻寸前の状態であった。また、共和国の公金にも手を付けていたといわれる。ロレンツォの不正は、メディチ家のフィレンツェの支配者としての意識の変質を物語るものとなる。
 
=== フィレンツェ追放と君主化 ===
ロレンツォが43歳の若さで病死し、息子の[[ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ|ピエロ]]が家督を継ぐが、[[1494年]]、フランス軍の侵攻に対する対処を誤り、市民の怒りを買ってしまう。メディチ家はフィレンツェを追放され、メディチ銀行も破綻した。この失態からピエロは、ピエロ・イル・ファトゥオ(愚昧なピエロ)というあだ名で呼ばれることになった。その後ピエロは[[チェーザレ・ボルジア]]の軍と共に行動していたが、[[1503年]]に溺死した。このため、ピエロ・ロ・スフォルトゥナート(不運なピエロ)とも呼ばれる。ピエロの死により、メディチ家の当主は弟のジョヴァンニに継承された。
 
[[1512年]]、[[枢機卿]]ジョヴァンニ(ロレンツォの次男)を筆頭にしたメディチ家は、[[ハプスブルク家]]の援助を得て[[スペイン]]軍とともにフィレンツェに復帰し、その支配を再確立。[[1513年]]、ジョヴァンニは[[ローマ教皇]][[レオ10世_ (ローマ教皇)|レオ10世]]として即位(在位1513-1521)し、メディチ家はフィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となった。レオ10世は芸術を愛好し、ローマを中心に<!--イタリア全土に-->[[ルネサンス]]の文化の最盛期をもたらしたが、多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招き、また[[サン・ピエトロ大聖堂]]建設のためとして大掛りな[[贖宥状]](いわゆる免罪符)の販売を認めたことで、[[1517年]]の[[マルティン・ルター]]による[[宗教改革]]運動のきっかけを作った。
 
レオ10世は[[1521年]]に死去するが、2年後、従兄弟の[[枢機卿]]ジュリオが教皇[[クレメンス7世_ (ローマ教皇)|クレメンス7世]](在位1523-1534)として即位する。クレメンス7世は当時の複雑な政治状況の中、フランスと同盟を結んだことで、
[[1527年]]、[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の報復を受け、[[ローマ略奪]]の大惨事を招く。同時にメディチ家も再度フィレンツェを追放されるが、[[1530年]]にはクレメンスと皇帝カール5世が和解したため、メディチ家はフィレンツェに帰還、復権する。クレメンスの息子(庶子)[[アレッサンドロ・デ・メディチ|アレッサンドロ]]が「'''フィレンツェ公'''」となり、メディチ家はついに正式な君主となった。
 
=== トスカーナ大公国 ===
フィレンツェ公アレッサンドロが[[暗殺]]されて、コジモ・イル・ヴェッキオ以来の家系が断絶した後には、傍系の[[コジモ1世]]が継承。[[1569年]]には「'''トスカーナ大公'''」となった。コジモは専制君主としてトスカーナ大公国を支配し、またフィレンツェを豪華な宮殿やモニュメントで飾り立て、現在見られるようなフィレンツェの景観を作り出した。
 
コジモ1世の死後は、コジモの子孫が代々トスカーナ大公位を継承したが、[[大航海時代]]や[[宗教改革]]の影響でイタリア自体の西欧での地位が低下し、[[フェルディナンド1世・デ・メディチ|フェルディナンド1世]]を最後にして[[トスカーナ大公国]]はイタリアの一小国になってしまった。
 
=== メディチ家の断絶 ===
[[1737年]]、第7代トスカーナ大公[[ジャン・ガストーネ・デ・メディチ|ジャン・ガストーネ]]が後継者を残さずに死亡。トスカーナ大公の地位は、[[ロートリンゲン]]家のフランツ・シュテファン([[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]])が継承した。こうして、西ヨーロッパにその名を馳せたメディチ家は断絶した。<!---- 現在では、断絶ではなく、正当な後継者としてみとめられているオッタビーノ、コスタンツァが存在する ノート参照。---->
 
* [[コジモ・デ・メディチ]](イル・ヴェッキオ)(Cosimo de' Medici、1389-1464)、[[フィレンツェ]]におけるメディチ支配を確立した<!----([[1434年]]-[[1737年]])。--->([[1434年]]-[[1464年]])。
* [[ロレンツォ・デ・メディチ]](イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici il Magnifico、1449-1492)、フィレンツェ・[[ルネサンス]]の黄金時代を築いた([[1469年]]-[[1492年]])。
* ローマ教皇[[レオ10世_ (ローマ教皇)|レオ10世]] ジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni de' Medici、1475-1521 在位([[1513年]]-[[1521年]]))。教皇庁で多大な浪費を行い、[[宗教改革]]の原因ともなった。
* ローマ教皇[[クレメンス7世_ (ローマ教皇)|クレメンス7世]] ジュリオ・デ・メディチ(Giulio de' Medici、1478-1534 在位[[1523年]]-[[1534年]]))。[[ローマ略奪]]を招き、[[ハプスブルク家]]に屈服するも、[[フィレンツェ公国]]を建国する([[1532年]]、後の[[トスカーナ大公国]])。
* [[ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ|黒隊長ジョヴァンニ]](Giovanni delle Bande Nere、1498-1526)。庶流の出であったが、傭兵軍団を率いて「黒隊長」として恐れられる。28歳の若さで戦死。コジモ1世の父。
* [[コジモ1世]](Cosimo I de' Medici、1519-1574)、[[1537年]]、[[フィレンツェ公]]、[[1569年]]、初代[[トスカーナ大公]]になる。[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]、[[アーニョロ・ブロンズィーノ|ブロンズィーノ]]らを[[宮廷画家]]として迎える。また、ミケランジェロの葬儀([[1564年]])を行った。
*[[フェルディナンド・デ・メディチ (大公子)]](Ferdinando de Medici、1663-1713)、大公子。積極的なパトロネージを展開し、「'''トスカーナの偉大なる光明'''(グラン・ルーメ)」としてイタリア中に名声を広めた。しかし晩年は[[梅毒]]にかかり、大公位を継承することができなかった。
 
== フィクションへの反映 ==
*[[アレクサンドル・デュマ・ペール]]の小説[[モンテ・クリスト伯]]の中に出てくる「スパダ家」は、メディチ家ではないかと推測される。モンテ・クリスト伯が作中で得た財産はスパダ家の隠し財宝だが、スパダ家がイタリアの豪商であること、枢機卿を輩出していること、断絶していることなどが一致する。なお、モンテ・クリスト伯が書かれたのは[[1844年]]から、冒頭部分は[[1815年]]から始まる。
 
: <ふくろうの本>[[河出書房新社]] 2000年
* [[藤沢道郎]] 『メディチ家はなぜ栄えたか』 ([[講談社]]選書メチエ、2001年)
* [[中田耕治]] 『メディチ家の人びと ルネサンスの栄光と頽廃』([[講談社学術文庫]]、2002年)
*クリストファー・ヒバート 遠藤利国訳 『メディチ家の盛衰』(上.下、[[東洋書林]]、2000年)
: ※『メディチ家  その勃興と没落』リブロポート、1984年の改訂版
*クリストファー・ヒバート  横山徳爾訳 『フィレンツェ』 (上.下 [[原書房]]、1999年)
*ロラン・ル・モレ 『[[ジョルジョ・ヴァザーリ]] メディチ家の演出者』 
: [[平川祐弘]]・平川恵子訳、[[白水社]] 2003年
[[es:Médici]]
[[et:Medici]]
[[eu:Medici]]
[[fa:خاندان مدیچی]]
[[fi:Medici]]
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