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1899<!--1899?-->年以降、37年にわたってウィーン芸術工芸学校で教鞭をとった。1903年、銀行家フリッツ・ヴェルンドルファーやデザイナー[[コロマン・モーザー]]([[:de:Koloman Moser|Koloman Moser]])と共にウィーン工房を設立。ここで彼は多くの作品の構想を描いた。1906年彼は自らの初めての大きな作品、プーカースドルフのサナトリウムを建てた。
 
オーストリアで登山鉄道を運営していたオーストリア、ベルギーの合弁の鉄道会社の顧問アドルフ・ストックレーと知り合い、この出会いから、[[ブリュッセル]]の別邸([[ストックレー邸]])の設計を依頼され、その建築に当たる(1905-1911年)。これは、直線的な装飾を用いたウィーン分離派の特徴が表れており、建築史上に残る彼の代表作となった。ホフマン及びウィーン工房が装飾、家具、食器、庭園までをデザインし、[[グスタフ・クリムト|クリムト]]が食堂の壁画を描いたことでも知られる。
 
1912年ホフマンはオーストリア工芸連盟の発起人の1人になっている。