「片岡仁左衛門 (11代目)」の版間の差分

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:「あれは父のなくなる前の年でしたか、父が近々引退するらしいと言ううわさがたったことがありました。それを大阪で聞いたおじさん(初代鴈治郎)は、(中略)すぐその足で明舟町の家へ来られ『引退するてほんまか。引退なんかしたらあかん。体もよわるし、今からやめてどうするのや。もっともっと働いてくれな、どもならん』とまるで怒っているような語気で父に説いていられた姿が、今もまぶたに残っています。『せえへん、せえへん』と笑いながら答える父に、やっと安どしたように四方山の話をして、定宿の築地の細川に帰られたのは十時近かったと思います」(十三代目片岡仁左衛門著 『仁左衛門楽我記』 昭和57年 三月書房)
 
「仁左衛門は初日の巧い役者であった。さうして、だんだん舞台に飽いてきて、遂に餅も下げもならぬものにしてしまつた。鴈治郎は初日より二日目、二日目よりより三日目、だんだん研究して飽くことをしらなかつた。仁左衛門は稽古に頗る叮嚀で舞台はやや粗雑であつた。鴈治郎は稽古はどちらかといふと嫌いの方だが、舞台では叮嚀であつた。」([[食満南北]]著『作者部屋から』昭和19年宋栄堂)
 
{{和暦|1934}}、甥の四代目片岡我童([[片岡仁左衛門 (12代目)|十二代目片岡仁左衛門]])の子、五代目片岡芦燕([[片岡我童 (13代目)|十三代目片岡我童]]、死後十四代目片岡仁左衛門追贈)襲名披露出演中倒れ、大阪で死去。76歳。墓所は[[池上本門寺]](東京都)。