「フリッツ・プフェファー」の版間の差分

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1936年に非ユダヤ人女性のシャーロッタ・カレータ(Charlotta Kaletta)と恋人となる。しかしユダヤ系と非ユダヤ系の結婚を禁じたニュルンベルク法のために結婚できなかった。プフェファーは1938年11月におこった反ユダヤ主義暴動「[[水晶の夜]]」事件を見て本格的に危険が迫ってきていることを悟り、12月に故国ドイツを離れる決意を固めた。シャーロッタとともに[[オランダ]]・[[アムステルダム]]へ移住し、ここで歯科医を開業した。同じくドイツから逃れてきたユダヤ系の[[オットー・フランク]]一家や[[ヘルマン・ファン・ペルス]]一家と親しくなった。また後に隠れ家での生活を支援する[[ミープ・ヒース]]([[:en:Miep Gies]])とフランク家を通じて知り合い、彼女はプフェファーの患者の一人となった。
 
しかしアムステルダムでの平和な生活も長くは続かなかった。二年後にドイツ軍がオランダを侵略し、全土がドイツ占領下に置かれてしまった。オランダ総督[[アルトゥール・ザイス=インクヴァルト]][[親衛隊中将]]はオランダでも次々と反ユダヤ立法を行う。プフェファーは再び危険な立場に置かれた。彼はミープ・ヒースに隠れられる場所を相談した。ミープはオットー・フランクの会社があったアムステルダム・プリンセンフラハト通り263番地ですでに隠れ家生活に入っていたフランク一家やファン・ペルス一家にプフェファーのことを相談した。オットー・フランクはプフェファーを同居人に加えることに賛成し、プフェファーもここで隠れ家生活に入ることとなった。この際、職業上の都合で隠れ家入りの予定を数日延期しており、それはオットー・フランクも了解の上だったのだが、アンネは日記上で批判していた。シャーロッタはユダヤ系ではないため、隠れ家生活には入らなかった。
 
『アンネの日記』によるとプフェファーは隠れ家の中でも歯科医を「開業」し、他の隠れ家メンバーの診療を行っていたという。しかしプフェファーは[[アンネ・フランク]]と同室を使用していたため、机の使用などをめぐってアンネと折り合いが悪く、しかもアンネにマナーの説教をすることがあり、アンネは日記上でプフェファーを悪役にすることが多い。プフェファーの説教的な態度を尊大な態度と見て「閣下」と呼ぶなどして皮肉っている。