「シンシナティ・レッズ (1876-1880年)」の版間の差分

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==球団史==
アメリカ合衆国で最初のプロ野球チームだった[[シンシナティ・レッドストッキングス]]は、所属選手の流出により1870年にプロ球団としての活動を止め、翌年創設されたプロ野球リーグ[[全米プロ野球選手協会|ナショナル・アソシエーション]]には、[[オハイオ州]][[シンシナティ (オハイオ州)|シンシナティ]]を本拠地とする球団は参加しなかった。1876年に[[ナショナルリーグ]]が創設される際、当時シンシナティで食肉加工業で財をなしていたジョサイア・L・ケックという人物が、かつてのレッドストッキングスの成功にならい、プロ球団「レッズ」を創設してリーグに加わった。ケックの食肉加工工場の近くに、新たにアベニュー・グラウンズという球場も建設された。
[[オハイオ州]][[シンシナティ (オハイオ州)|シンシナティ]]を本拠地とする球団として、1876年から始まった[[ナショナルリーグ]]に加盟。初年度は9勝56敗と最下位の成績に終わった。その後1878年には[[キング・ケリー]]が加入、先発の[[ウィル・ホワイト]]が30勝利以上を挙げる活躍をしリーグ2位まで躍進した。
 
レッズは、以前レッドストッキングスのメンバーだったチャーリー・グールドやチャーリー・スウィージーなどを呼び寄せたりしたが、リーグ加盟初年は9勝56敗と最下位の成績に終わり、2年目も成績は低迷する。チームは1877年シーズン中の6月19日に一度破綻し、新たなオーナーとなったJ・ウェイン・ネフのもとで再編されることになった。
しかし好成績は長続きせず、5年目の1880年には21勝53敗と再び最下位に転落。この年レッズはリーグの規則に違反して球場で[[ビール]]を販売し、日曜日のグラウンド閉鎖を拒否したために、ナショナルリーグから脱退を命じられ、チームは消滅した。球団のフランチャイズ権はデトロイトに買い取られ、翌1881年から[[デトロイト・ウルバリンズ]]がリーグに加盟することとなった。
 
1878年には[[キング・ケリー]]が加入、先発の[[ウィル・ホワイト]]が30勝利以上を挙げる活躍をしリーグ2位まで躍進した。しかし好成績は長続きせず、1879年にはふたたび勝てなくなり、チームは1万ドル以上の損失を抱えて財政面の危機を迎えた。オーナーのネフは、この年を最後にナショナルリーグからの脱退を表明していたが、同年10月に、シンシナティのセミプロ球団の所有者だった[[ジャスタス・ソーナー]]がチームを買い取り、チームは翌年もナショナルリーグに所属することになる。
翌1882年にシンシナティでチームが編成しなおされ、この年創設された[[アメリカン・アソシエーション (19世紀)|アメリカン・アソシエーション]]に加盟した。これが現在まで続くシンシナティ・レッズである。
 
しかし好成績は長続きせず、5年目の1880年には21勝53敗と再び最下位に転落する。ソーナーはシーズン中に、チームの内紛から既にレッズの経営を外れてしまっていた。この年レッズはリーグの規則に違反して球場で[[ビール]]を販売し、日曜日のグラウンド閉鎖を拒否したため、ナショナルリーグから脱退を命じら除名され、チームは消滅した。球団のフランチャイズ権はデトロイトに買い取られ、翌1881年から[[デトロイト・ウルバリンズ]]がリーグに加盟することとなった。
 
その後1882年に、上記のソーナーがシンシナティでチーム編成しなおされ、この年創設された[[アメリカン・アソシエーション (19世紀)|アメリカン・アソシエーション]]に加盟した。これが現在まで続くシンシナティ・レッズである。
 
==戦績==