「絓秀実」の版間の差分

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推測による削除であるならこちらもそうであると思われる
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== 現在の活動 ==
現在は、2008年4月1月[[早稲田大学]]入学式での不当逮捕抗議[http://waseda080401.web.fc2.com/]に取り組んでいる。1968年[[全学共闘会議|全共闘]]にこだわる絓が、未だノスタルジックに[[学生運動]]にこだわっているのか、とする揶揄もある。 
 
しかしながら、ちなみに、[[首都大学東京]]理事長[[高橋宏]]氏は[[NPO]]「21世紀大学経営協会」2005年度総会で「大学は原材料を仕入れ、加工して製品に仕上げ、卒業証書という保証書をつけ企業へ出す。これが[[産学連携]]だ」と発言している。また雑誌『現代思想:特集「大学の困難」』(2008年9月号)においては、「世間の注目を受けないまま、大学が現在過酷な大転換期を迎えようとしている。(…)大学はその姿を消そうとしている。(…)しかし重要なのは、だからこそ大学という場所が、教える者にせよ、教わるものにせよ、フロントが消滅しかかっている現在にあって、数ある現場と化している、という事実である。大学は、あるいは皮肉なことかもしれないが、二重の意味で現場を、ひょっとしたら歴史上初めて、手に入れつつあるのだ。(…)これは大学人にとって未曾有の経験であることに、もっと自覚と誇りを持つべきなのだ。(…)ここが出発点だ。」と論じられている<ref>『現代思想:特集「大学の困難」』編集後記参照。全文は以下の通り:「世間の注目を受けないまま、大学が現在過酷な大転換期を迎えようとしている。古き良き教養を講じ、高邁な理念について日夜議論を交わしている、とステロタイプ的にイメージされる大学など、そもそもそのような大学がかってあったのかどうかも相当に怪しいのだが、これからはほとんどお目にかからなくなるだろう。もっとも、大学そのものの権威が低下したわけではまったくなく、事態はその逆に進行しているにもかかわらず、大学はその姿を消そうとしている。その論理は、表面的にはどうあれ、全く簡単なもので、財務省主導、あるいは端的に、財政縮小、行政改革による緊縮財政によるもの、つまりはグローバリゼーションの効率化による論理がその主な要因をなす。しかし重要なのは、だからこそ大学という場所が、教える者にせよ、教わるものにせよ、フロントが消滅しかかっている現在にあって、数ある現場と化している、という事実である。大学は、あるいは皮肉なことかもしれないが、二重の意味で現場を、ひょっとしたら歴史上初めて、手に入れつつあるのだ。みるべき現実は、あそこにもあるのだろうが、ここにも確実にある。これは大学人にとって未曾有の経験であることに、もっと自覚と誇りを持つべきなのだ。ここでどう考えるかということは、すぐさま、別の箇所でどう考えるのかに繋がり、またよそで考えることがここで考えることにダイレクトに繋がる。サラリーマン化を恐れることはない。好ましい自体ではないかもしれないが、ワーキングプア化を恐れることはない。ここが出発点だ。」</ref>。
 
絓たちも上記のことは充分意識しており、絓はこれら[[早稲田大学]]での一連の逮捕事件を、「局所的=孤立的な事件」ではなく、「グローバル[[資本主義]]下の大学で必然的に生起した事件であり、その意味を問うことなしには戦いえない」<ref>『ネオリベ化する公共圏 ~壊滅する大学・市民社会からの自律』2006</ref>としている。またその意味を絓は、大学が、「規律・訓練型の自治的な公共空間から、今や監視・管理型の統治形態を採用する場」(→[[生政治]]・[[ディシプリン]]・[[パノプティコン]])となった、とまとめている。そこでは前者にはあった大学の「目的」が存在しない。その「檻に囲まれた一種の動物園」=学生消費者が[[セキュリティー]](快適な学園生活)を購入している状態を、[[東浩紀]]の「データベース化」「動物化」というタームとパラレルであるとしている。