「六郷政晴」の版間の差分

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明暦の大火は1657年のことなのに、そのとき生まれてもいなかった六郷政晴がなぜ登場か。
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[[延宝]]3年([[1675年]])、第3代藩主・[[六郷政信]]の長男として生まれる。[[貞享]]2年([[1685年]])、父の死去により後を継ぐ。治世中に隣接する[[旗本]][[仁賀保挙誠|仁賀保氏]]と、領民の紛争をきっかけに争いが起こっている。本荘藩の領民が[[仁賀保藩|仁賀保氏領]]の冬師山の木を伐採したことで領民同士が争い、藩と仁賀保氏との争へと発展した。将軍直参の旗本である仁賀保氏は幕府に裁定を持ち込み、争いは足掛け7年に及んだが、最終裁定は本荘藩に有利なものとなった。また[[正徳]]2年([[1712年]])には同じく隣接する亀田藩との間で、真木山の権益を巡っての争いが始まるが、これが解決するのは百余年のちのことである。
 
振袖火事とも呼ばれる、[[明暦]]3年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1657年]][[3月2日]])の[[明暦の大火]]の際、鎮火後の救済支援活動として、幕府は将軍[[徳川家綱|家綱]]の名の下に、被災民への炊き出し(粥の給食)を行わせた。粥の材料である米は幕府の浅草米屋敷([[浅草御蔵]]、現在の[[台東区]][[蔵前]])の備蓄米が充てられ、[[日本橋 (東京都中央区)#日本橋(橋梁)|日本橋]]を境に南側を[[内藤忠興]]と[[石川憲之]]に、北側は'''六郷政晴'''{{要出典}}と[[松浦鎮信]]に炊き出しを実行させた。当初は九日間という予定であったが、被災民の困窮が予想以上だったために数日間延期され、その後も隔日で配給は続き、ほぼ一月後に終了した。
 
[[享保]]11年([[1726年]])、長男・政英を廃嫡。享保20年([[1735年]])閏3月2日、次男・政長に家督を譲って隠居し、寛保元年(1741年)3月27日に67歳で死去した。