「フリッツ・プフェファー」の版間の差分

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しかしアムステルダムでの平和な生活も長くは続かなかった。二年後にドイツ軍がオランダを侵略し、全土がドイツ占領下に置かれてしまった。オランダ総督[[アルトゥール・ザイス=インクヴァルト]][[親衛隊中将]]はオランダでも次々と反ユダヤ立法を行う。プフェファーは再び危険な立場に置かれた。彼はミープ・ヒースに隠れられる場所を相談した。ミープはオットー・フランクの会社があったアムステルダム・プリンセンフラハト通り263番地ですでに隠れ家生活に入っていたフランク一家やファン・ペルス一家にプフェファーのことを相談した。オットー・フランクはプフェファーを同居人に加えることに賛成し、プフェファーもここで隠れ家生活に入ることとなった。この際、職業上の都合で隠れ家入りの予定を数日延期しており、それはオットー・フランクも了解の上だったのだが、アンネは日記上で批判していた。シャーロッタはユダヤ系ではないため、隠れ家生活には入らなかった。
 
『アンネの日記』によるとプフェファーは隠れ家の中でも歯科医を「開業」し、他の隠れ家メンバーの診療を行っていたという。しかしプフェファーは[[アンネ・フランク]]と同室を使用(彼自身が[[ネコ|猫]][[アレルギー]]だったことから、[[ペーター・ファン・ペルス]]と同室にはできなかった)していたため、机の使用などをめぐってアンネと折り合いが悪く、しかもアンネにマナーの説教をすることがあり、アンネは日記上でプフェファーを悪役にすることが多い。プフェファーの説教的な態度を尊大な態度と見て「閣下」と呼ぶなどして皮肉っている。
 
1944年8月4日、通報を受けて出動した[[カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー]][[親衛隊曹長]]率いる[[保安警察]]の一部隊が隠れ家へ踏み込んできた。プフェファーを含めてすべての隠れ家住人は逮捕された。逮捕後、プフェファーはベステルボルク通過収容所、[[アウシュヴィッツ強制収容所]]、[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]と[[ザクセンハウゼン強制収容所]]を経て[[ノイエンガンメ強制収容所]]へ送られた。12月20日には同地で死亡させられている。