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'''結城 持朝'''(ゆうき もちとも、[[1420年]]([[応永]]27年)- [[1441年]][[5月6日]]([[嘉吉]]元年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]))は、[[室町時代]]前期の[[武将]]。[[下総国|下総]][[結城氏]]の第12代当主。第11代当主[[結城氏朝]]の嫡男。[[結城長朝|長朝]]、[[結城成朝|成朝]]は弟、[[小山持政]]は従兄にあたる。官位は右馬頭。'''結城七郎'''を称した。
 
[[1438年]]([[永享]]10年)の[[永享の乱]]では[[鎌倉公方]][[足利持氏]]に加勢した。
 
[[1440年]](永享12年)3月、永享の乱で自害した持氏の遺児である[[足利春王丸|春王丸]][[足利安王丸|安王丸]]を雍した持氏派残党が常陸で挙兵すると、氏朝・持朝父子はこれらを[[結城城]]に庇護し、幕府による追討を受けた([[結城合戦]])。持朝は父氏朝や結城一族の諸氏と抵抗したものの敗れ、結城城は落城し、父子ともに討死または自害した。『[[永享記]]』によれば、持朝の首級を挙げたのは[[武田信重]]だという。春王丸・安王丸も捕らえられ持朝らの首とともに京に護送される途中[[長尾実景]]に殺害されている。
 
法名は福厳寺殿天英聖勇大禅定門。持朝の菩提を弔うために開かれた曹洞宗乗国寺(現在の[[茨城県]][[結城市]])は、のちに結城氏代々の菩提寺になった。