「奥州探題」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
5行目:
[[応永]]6年([[1399年]])、鎌倉公方[[足利満兼]]は[[足利満貞|満貞]]、[[足利満直|満直]]の二人の弟を稲村御所、篠川御所として下向させた。しかし、この頃から将軍と鎌倉公方の関係はかなり悪化しており、幕府は関東や奥州で鎌倉府時代と対立している有力国人を[[京都扶持衆]]として直臣化して鎌倉公方に対抗した。また、応永7年([[1400年]])には[[大崎詮持]]を奥州探題に任命したという。以降[[大崎氏]]が世襲する。
 
しかし、もともと奥州では有力国人が各郡の[[軍勢催促]]、[[軍忠状]]証判・注進、[[使節遵行]]など守護並みに強い権限を持っている上に、南半は鎌倉府の分身である笹川・稲村御所に押さえられ、内にも[[伊達氏]]や[[名氏]]などは京都扶持衆として幕府と直接結びつき、強力な支配は不可能であった。それらの有力国人は、自己が支配する各郡を領国化し、次第に戦国大名化する。それに対抗するために[[大崎氏]]も自己の直接支配領域を領国化し、一有力国人へと零落していった。
 
[[大永]]11年([[1514年]])、[[伊達稙宗]]が陸奥国[[守護]]職に任ぜられた。これにより、大崎氏が世襲する奥州探題制は事実上終焉する。その後伊達氏は大崎氏を圧倒して支配下に置くようになる。[[弘治_(日本)|弘治]]元年([[1555年]])には稙宗の子・[[伊達晴宗]]が奥州探題に任じられて以後は伊達氏の世襲となり、室町幕府滅亡後に当主となった[[伊達政宗]](晴宗の孫)も奥州探題を自称した。