「結城政朝 (白河氏)」の版間の差分

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父の直朝とともに白河結城氏の最盛期を築き上げ、南奥州や北関東に権威を振るった。
 
[[1470年]]に[[相馬氏]]、[[1474年]]に[[岩城氏]]と同盟し、[[1484年]]には[[石川氏]]の一族を取り込んだ。[[1489年]]には[[伊達氏|伊達]]・[[蘆名氏|蘆名]]・[[小山氏|小山]]・[[結城氏|下総結城氏]]と連合して[[佐竹氏]]と争った
 
しかし、[[1510年]]に有力支族の[[小峰氏]]と対立して、当主[[小峰朝脩]]を自害させ、その後朝脩の父[[小峰直常|直常]](政重)に攻められ那須へ逃亡し、行方不明となった([[永正の変]])。この内紛により、白河氏の勢力は衰退することになる。政朝は直常の追っ手によって殺されたとも言われている。
[[1489年]]には[[伊達氏|伊達]]・[[蘆名氏|蘆名]]・[[小山氏|小山]]・[[結城氏|下総結城氏]]と連合して[[佐竹氏]]と争った。
 
しかし、[[1510年]]に有力支族の[[小峰氏]]と対立して、当主[[小峰朝脩]]を自害させ、その後朝脩の父[[小峰直常|直常]](政重)に攻められ那須へ逃亡し、行方不明となった([[永正の変]])。この内紛により、白河氏の勢力は衰退することになる。政朝は直常の追っ手によって殺されたとも言われている。
 
[[1481年]]に白河氏の栄華を讃えて白河城下の[[鹿島神社]]で一日一万句の[[連歌]]会を催した。この連歌会は「[[宗祇]]戻し」の逸話がある。