「松倉勝家」の版間の差分

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『黒田長興一世之記』によれば寛永14年([[1637年]])10月、口の津村の庄屋与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。庄屋宅では人々が何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう納めるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。[[10月25日]]、耐えかねた領民はついに蜂起し、代官を殺害した。これが[[島原の乱]]の始まりである。
 
乱の鎮圧後、勝家は悪政の責任を問われ、寛永15年[[4月4日 (旧暦)|4月4日]]([[1638年]][[5月17日]])、[[寺沢堅高]]([[唐津藩|唐津藩主]])と共に[[改易]]。所領を没収され、[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]には[[美作国]][[津山藩]]藩主[[森長継]]に預けられた。『嶋原一揆松倉記』によれば、屋敷にあった桶の中から農民と思われる死体が出てきたため、これが決め手となり、5月になって取り調べのため江戸に護送され、同年7月19日に江戸の森家下屋敷で斬首に処せられた。通常、大名が不名誉な斬首に処せられることはなかったので、いかに幕府が勝家の苛政を重罪として扱ったかがわかる(ただし切腹言われている)。彼には二人の弟がいたが、次弟・重利は讃岐国、会津国と預けられ、1655年に自殺。末弟・三弥は命は助けられたものの浪人となってしまい、松倉家は断絶し、[[高力忠房]]が[[遠江国]][[浜松藩]]より[[転封|移封]]されて島原藩を継いだ。
 
弟の重利の系統は300俵の旗本として存続している
 
{{先代次代|[[島原藩|松倉氏(島原藩2代)藩主]]|1630 - 1638|[[松倉重政]]|[[高力忠房]]}}