「第一次トゥルグ・フルモス攻防戦」の版間の差分

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[[第一次トゥルグ・フルモス攻防戦]]とは[[第二次世界大戦]]中、[[オットー・ヴェーラー]]率いる枢軸軍部隊と[[イワン・コーネフ]]率いる[[赤軍|ソビエト赤軍]]の間で行われた[[ヤッシー=キシニョフ攻勢]]の一方面の戦いである。
 
1944年4月前半、[[スタフカ|赤軍総司令部]]は[[ウクライナ]]南西部において作戦活動行う主要担当する2個部隊方面軍に[[ルーマニア]]北西部に対する戦略的攻を開始するよう命令した。ソビエト[[第2ウクライナ方面軍]](司令官:イワン・コーネフ)は4月5日までにトゥルグ・フルモス、ボトシャニ方面へ、[[4月8日]]にトゥルグ・フルモスへ攻撃を開始した。の地域の防衛を担当していたルーマニア第4軍はドイツ第24装甲師団の装甲部隊でを受けされており、赤軍による最初進撃を迎え第一つ用意止めるだけの準備ができていた。しかし、これらの防衛部隊ではトゥルグ・フルモスおけ対する赤軍の攻撃に対抗するのが困難であること難しく明らかであり町は翌日までにトゥルグ・フルモスはソビエト第27軍の2個狙撃兵師団によって占領された。一方、[[第8軍 (ドイツ軍)|ドイツ第8軍]]はこれに素早く反応、[[ハッソ・フォン・マントイフェル]]率いるグロースドイッチュラント師団|装甲擲弾兵師団[[グロースドイッチュラント師団|グロースドイッチュラント]]はトゥルグ・フルモスへ向かい、町を奪還するよう命令した。最初の命令を受けてから48時間以内の[[4月10日]]夕方までに、グロースドイッチュラント師団は町奪還に成功、新たな防衛拠点の確立を築くことに成功した。域内に残っている包囲の危機に直面てい残存赤軍部隊との散発した的な戦いは[[4月12日]]まで続いた。
 
戦いが終わった後、ドイツ軍は町の北西と北東に新たな防衛線を構築、トゥルグ・フルモスそれ自体の郊で適切な傍に予備部隊として装甲部隊を維持した。一方、トゥルグ・フルモスの苦難の上被った敗北したことに苛立ちを感じていたコーネフは[[4月12日]]第2戦車軍に対してPodu Iloaieの村へ攻撃するよう命じた。
 
==背景==